続・収容所からの遺書ー道義国家日本への夢

24日のブログでソビエトによるシベリヤ抑留を書きました。
収容所ロシア語でラーゲリの苛酷な生活について触れました。
『収容所から来た遺書』の著者辺見じゅんさんの取材が光ります。
日本人による同胞へのつるし上げや密告を書き込んでいました。
帰国したい一念だったとはいえソビエトに媚びを売る行動は悲しいです。

主人公の山本旗男さんはソビエトに理想を抱いていただけに悲惨です。
憧れの国家から苛烈な仕打ちを受けたことがまずあります。
ロシア語ができたために諜報機関に所属したことがやり玉に挙げられました。
日本人の同胞からも糾弾されたのです。二重の重圧です。
精神的に追い詰められないわけがありません。
病に倒れた原因になったと思います。

山本さんは文芸の才能豊かで俳句の会を立ち上げました。
「アムール句会」と呼ばれ長期抑留者の精神的な支えになっていました。
この句会に私が存じ上げている方が入っているのを知りました。
草地貞吾さんです。満州の日本軍の指導者のひとりです。
私の父のシベリア抑留時代の親分的な存在でした。

父は抑留後も徹底してソビエト体制に反旗を翻しました。
その仲間たちの顔が草地さんです。
父に連れられ一度お会いしたことがあります。
背筋がピンと伸びた姿勢の良さに軍人らしさが出ていました。
著書でもぶれない姿に畏敬のまなざしが注がれていたと書かれています。

草地さんは軍指導者であったことから戦犯となり11年に及ぶ長期抑留になりました。
私の父は幸いにして戦犯にはならなかったため4年半で帰国できました。
長期抑留者に著名な方がいます。
草地さんと同様日本軍の作戦を立案した瀬島龍三さんです。

日本への復員後中曽根政権のブレーンとして活躍しました。
瀬島さんはソビエト側から日本人長期抑留者の団長の指名を受けていました。
東京裁判でソビエト側の証人として出廷した人物ですから当然と言えば当然です。
父が長らく瀬島さんに敵意を有していたのがわかるような気がしました。

著書で紹介された草地さんの俳句の最後に「宇山」という俳号がついていました。
驚きました。父の戦友たちの仲間の会の名前が「宇山会」だったからです。
草地さんは大分県宇佐の出身ですので俳号にこの名を選んだのでしょう。
もちろん、会は解散してしまっています。
数回参加させていただいた記憶がよみがえりました。

シベリア抑留の悲劇から来月で78年。日本人として忘れてはならない歴史です。
合掌。