二宮尊徳は、社会変革家であった。
昨晩、二宮尊徳を祀る報徳二宮神社で小田原倫理法人会の新年会が開催されました。「二宮尊徳の実践力が小田原を救う」をテーマに講演させていただきました。
二宮尊徳研究家の宇津木三郎氏が著した『尊徳を発掘する 埋められたゼロからの社会構築論』を参考書にしました。夢工房という零細の出版社から2014年10月に出されてます。
この著書の革新性は二宮尊徳は1830年代の天保期と1840年代に入ってからの弘化期とでその思想の根本を大きく変化させているということを実証していることです。
天保期は幾多の困難を乗り越えて桜町領(現在の栃木県真岡市)の農村復興を成し遂げ二宮尊徳のまちづくり手法、報徳仕法が興隆した時期です。
弘化期に入ってからは仕法の停滞が見られました。幕府の役人や領主の仕法への理解が思うように進まず二宮尊徳との間で激しい葛藤がありました。
宇津木氏によると天保期は自然の営みである天道(てんどう)と農業などの人としての行為である人道(じんどう)は、互いに調和して行くべきという世界観でした。
しかし弘化期に入ると天道を人道をはっきりと分離させて人道によって自然に立ち向かうという自立性を確立し人の営みがあっ社会を変革するという方向性が明確になりました。
これは画期的な思想の転換です。日本の場合は自然との調和を大切にして自然と一体となること尊ぶ思考が強いとされています。二宮尊徳は違いました。
人としての作為が社会を変えるというのです。ヨーロッパの発想にかなり近いです。ただ、二宮尊徳は東洋的な考え方も同時に持っていました。
それは人民一般が社会変革の中心ではなく地域のリーダー層があたかも聖人のような立派な心掛けを持ち模範を示すことによって社会を変えて行くという発想でした。
幕府の官僚機構や両州の抵抗に遭遇した二宮尊徳は報徳仕法の担い手である地域のリーダー層に期待を寄せその自覚を喚起し自立させようとしたのだと思います。
宇津木氏は、二宮尊徳の原稿を忠実に書き取った高弟の斎藤高行の記録を丹念に読み解き二宮尊徳の日記や書簡を参照し思想の転換を実証しています。
小著であってもその内容の革新性は今後の二宮尊徳研究に大きな影響を与えると思います。二宮尊徳は地域から日本を変えようとした社会変革家だったのです。
二宮尊徳が変革の担い手として最も期待を寄せた地域のリーダーとは現在でいえば市町村長に当たると思います。市町村長の意識改革を厳しく求めたのです。
この事実を知ると、もはや市町村長は軽々に二宮尊徳を学ぶなどと言えなくなります。自らの生きざまを厳しく問われたという事実を受け止めることになるのですから。
市町村長が、二宮尊徳を学ぶということは、自らの行動規範を厳格に律し自治体運営に当たっては倹約を徹底し余剰を生み社会のために投資することを実践することです。
人口減少・少子高齢化という難問に直面している全国の自治体の首長にとって二宮尊徳はとてつもなく厳格な先生として位置付けられることになります。