「父から聞いたシベリア抑留」

神奈川県開成町遺族会では毎年戦争体験を語り継ごうと戦争体験のある方を招き講演会を開催しています。8月15日、戦没者慰霊祭の終了後行います。

今年は、私が父から聞いた話をすることになりました。父は帝国陸軍に志願して入隊し太平洋戦争が始まる1941年に陸軍大尉となり旧満州に渡りました。

当時は、現在の中国東北部に満州国が建国されて、日本の支配下に置かれてました。関東軍と呼ばれた陸軍が日本の権益を守る要となっていました。

父は、ソビエト(現ロシア)との国境に近い孫呉という地に赴き1945年3月ソビエト侵攻に備える決死隊の大隊長に就きました。

その年の8月9日日ソ中立条約を破棄し侵攻してきたソビエト軍と激闘を展開し1300人ほどの兵力の七割程度を失いました。

7キロ、10キロの爆弾を抱え圧倒的優勢の敵戦車の底に潜り込み爆発させるという決死の戦法を取りました。60両以上の戦車に損害を与えたと言われます。

戦前、戦後にかけて活躍した著名な軍事ジャーナリストの伊藤正徳氏が『帝国陸軍の最後』で鬼大尉のもとでの勇猛果敢な戦いを詳述しています。

父も『北の国で生きて』という手記を残しています。この中で二十歳そこそこの若い兵士の身を挺しての戦いをたたえています。

父はそうした兵士たちのことを「戦争で死ぬために生まれてきた連中だ。」と話し手厚く弔ってあげなくてはならないと私に話していました。

父の死後、菩提寺に慰霊塔を建てることができました。父のいわば遺言に応えることができたと思います。菩提寺に行くたびに参拝しています。

ソビエトは、ポツダム宣言に定められた将兵の帰還の取り決めを一切無視し64万の関東軍の将兵をシベリアへと連行し強制労働を課しました。

父も4年8か月に及ぶ抑留生活を送りました。この中で展開された日本軍将兵たちの行動は父にとって思い出したくないものだったと想像します。

父は、将校でしたので強制労働は、免除されてました。懲罰としての労働にも断固拒否の姿勢を貫いたと書かれています。

ソビエトの思想工作も受け付けずソビエト共産主義になびくことを潔しとしませんでした。大半の将兵たちは違いました。

ソビエト共産主義を礼賛し父のようになびかない将兵を吊るし上げたということです。高級幹部もソビエト共産主義に傾いていました。

戦後中曽根政権のブレーンを務めた瀬島龍三氏は関東軍の作戦参謀でした。瀬島氏からソビエトの意向に沿って民主化運動をやるよう詰問されたということでした。

父は陸軍きっての収差だと言われていた瀬島氏に「阿呆もの」と怒鳴り返し瀬島氏は下を向いてしまったと手記に具体的に書かれています。

帝国陸軍の将兵たちの多くは自らをシベリアへと強制連行し強制労働に従事させたソビエトの独裁者スターリンに感謝状を贈るという行動に出ました。

一日も早く祖国の地を踏みたいという思いからの行動だとはいえ、今日からみると異様です。もちろん父はこうした動きに目を向けませんでした。

平和の集いの講演会は開成町役場の隣の町民センター3階の大会議室で午後1時半からです。入場無料でどなたでも自由に参加できます。どうぞ出かけください。