足柄の歴史再発見クラブ、新たなスタート

27日、足柄の歴史再発見クラブの例会が開成町民センターでありました。11人の参加で少なかったです。

6月29日の『新編富士山と酒匂川』刊行記念会に力を注いできましたので疲れてしまったのかもしれません。

刊行記念会は、参加人数の訂正がありマスコミの方などを含めると全部で138人だったということです。

100人が目標でした。数十人集まるかどうかの状態が続きました。タウン紙に掲載されたことで変わりました。

小林会長と一緒に案内に回り反応が違いました。タウン紙は地元密着の媒体になっていると強く感じました。

今月26日の神奈川新聞に「足柄の水害 次代に伝え」という見出しで『新編富士山と酒匂川』の刊行の記事が載りました。

記事を執筆したのは、望月寛之記者でした。前作の足柄歴史新聞『富士山と酒匂川』の取り組みを取材した記者です。

望月さんは前作の33ページに地層を掘った穴の中に入って調べている写真が掲載されています。

再び小田原市を中心とする県西部担当記者となって12年ぶりに改訂したことを記事にしてくれたことになります。

感謝です。歴史に詳しい望月記者の記事で『新編富士山と酒匂川』への関心が更に高まることを期待します。

27日の会議では、足柄歴史再発見クラブの今後の活動についても話し合われました。

東京都あきる野市を役員で訪問することになりました。今のところお盆休み明けの23日の予定です。

あきる野市は、富士山噴火後の酒匂川の治水工事を取り仕切った田中丘隅の生まれ故郷です。

副会長の関口康弘さんがすぐに現地に行って田中丘隅の墓などを調査し報告してくれました。

田中丘隅は、現在のあきる野市で偉業を行ったのではなく婿養子先の川崎と私たちの地域で後世に残る仕事をしました。

多摩川の六郷用水、二ヶ領用水の改修と先に述べました富士山噴火後の大洪水で破壊された酒匂川大口の治水工事です。

私たちの地域を救った恩人中の恩人です。その偉人の墓に手を合わせることができると思うと背筋が伸びます。

田中丘隅の業績を見つめ直して本当にすごいと感じるのは、生涯現役の生き方にあります。

田中丘隅は、1662年生まれ、川崎宿の名主を隠居したのは、1711年です。50歳手前です。

そこから当時最高の儒学者であった荻生徂徠の門をたたき研鑽を積むとともに諸国を歴訪しました。

日本全国各地の実情を基に『民間省要』という本を著しました。1720年のことです。

この本の中で当時の酒匂川の実態を暴露しています。富士山噴火後の工事は無駄遣いが多いと指摘してます。

地元の地理や治水などに詳しい人材を充てるべきだと主張しています。この提言を取り入れた人物がいます。

江戸幕府8代将軍徳川吉宗です。片腕であった大岡忠助の推挙を受けて田中丘隅を取り立てたのです。

酒匂川の難工事を成し遂げたのは1726年です。田中丘隅は、60半ばになっていました。

生涯を閉じたのは工事完了の3年後です。幕府の役人となってました。その生きざまには頭を下げさせられます。