東京大空襲の日に思うこと

今日は東京大空襲の日です。1945年3月10日、世がけるはるか前、深夜から下町に焼夷弾が降り注ぎました。

木造住宅は、火の海となり、死者数10万人、被災者100万人といわれます。敗戦の年の大苦難の始まりでした。

明日11日は東日本大震災から10年です。死者行方不明者は1万8千人余りで避難者はピーク時で47万人と言われます。

あれほどの大震災と比べ物にならない犠牲者を出した76年前の大空襲のすさまじさが伺われます。

昨日は女性研究家の宇佐美ミサ子さんのご自宅の資料整理を行いました。戦争関連の書籍も数多くあります。

出来る限り私の自宅へ移そうと整理を進めると、いつも暗たんたる気持ちにさせられます。

大空襲の被害を伝える書籍の頁をめくるとなぜもっと早く戦争を止められなかったのかという思いがこみ上げます。

大空襲のあった3月10日から敗戦の8月15日まで5か月ほどの月日が流れてしまいました。

日本軍として何らかの反撃、いわゆる一撃を連合軍に与え有利な条件で講和に持ち込もうとしたとされます。

根拠があったとは到底思われない一撃論に縛られ、6月沖縄で凄惨な地上戦に突入しました。

8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下されました。一連の戦闘と爆撃で40万人を超える犠牲者が出ました。

考えただけで背筋が寒くなるような数字です。止める手段はあったはずだと思うといたたまれなくなります。

決断がずるずると引き延ばされて最後の最後にはにっちもさっちもいかない状況に陥ったのです。

東京大空襲の前月に開かれたヤルタ会談でソビエトのスターリンは対日参戦を密かに表明していました。

日本は、そのソビエトを和平交渉の仲介役にして工作を進めようとしたのですから道化者を演じたのと同じです。

昭和天皇は戦争への悔恨の情を人一倍強く有していたことが宮内庁長官が残した拝謁記などから伺われます。

昭和天皇の悔恨の中には決断が遅れ多大な犠牲者を出してしまったことへの反省も当然含まれると思います。

大日本帝国の面子を守ることと帝国臣民の苦難を救うことのバランスの中で苦悩されたのだと推測します。

結果的には軍部の強硬論に押され早期終戦の決断ができず取り返しのつかない禍根を残しました。

今日の日本を取り巻く状況を眺めてみると敗戦の年に昭和天皇が置かれた環境と似通っているように思います。

東京オリパラをめぐる環境は悪化の一途をたどっています。感染収束を見込める状況にはありません。

オリパラの主催都市である東京は感染者数は下げ止まりが顕著です。頼みのワクチン接種もまだまだです。

変異種も出て安全に開催できる科学的な根拠とそのために講じる手段は明確になってません。

NHKの最新の世論調査は観客制限34%無観客19%中止が33%です。三つの選択肢のうちどれを選ぶかです。

決断を引き延ばし様子を見ることによってもたらされる弊害は体験済みです。早い段階での決断が必要です。