私にとっての10年目の3・11
10年前の朝、私は普段とは異なる緊張感を持ってました。神奈川県知事選挙出馬会見を午後に控えてました。
衆議院第2議員会館602号室の江田憲司衆議院議員の部屋で午後3時より行う予定でした。
神川県知事選挙は事実上オール与党の黒岩祐治さんと共産党の候補、それと私の3人の争いでした。
私を唯一推してくれたのがみんなの党で共同代表の江田さんの事務所が出馬会見場となりました。
私は2時半ごろ事務所に入ったと記憶してます。既に記者たちが詰めかけていて雑談をしていました。
2時46分激しい揺れを感じました。しばらくしてNHKで巨大地震発生のニュース速報が流れました。
記者会見はすっ飛び私の神奈川県知事選戦略もすっ飛びました。手の打ちようがなくなりました。
強大な組織力を持つ黒岩さんに対し首長有志と地域の支持で果敢に戦う構図を訴えたくても術がありません。
この日以来メディアは3・11一色でしたので県知事選挙の報道は隅に追いやられました。
こうなってしまうと組織力と知名度で他を圧倒している黒岩さんが断然有利となります。
黒岩さんは更に3・11で噴出した反原発の住民感情を背景に脱原発政策を看板に掲げました。
全世帯に太陽光パネルを設置するというのです。政策面でも完全に出し抜かれました。
選挙体制は私の方が圧倒的に非力であるのに加えメディア戦略でも先を越されたのです。
私は町長を務め実務者でしたのでできるはずない政策を看板に掲げることに臆病でした。
有権者は実現出来る出来ないよりも候補者の姿勢が鮮烈であるかどうかの方が選択の基準となります。
私は県も市町村も一体となってオール神奈川体制を創る、神奈川はひとつなんて言ってました。
目立ちません。不利な状況の中で応援してくれた首長有志や支援者の皆さんに申し訳ないです。
私が開き直ってなりふり構わずやっていれば3・11の状況下でももう少し何とかなったと思います。
運が悪かったというより私自身の覚悟不足が敗戦の根本にあったと認めざるを得ません。
3・11が私の政治家人生のターニングポイントとなったことは間違いのないところです。
10年前の今日を境に首長として政治の場に立つことが無くなりました。政治家として肩書が消えました。
開成町長としてやり残したことはありません。開成町の成功の方程式を応用したいという夢はとん挫しました。
新型コロナに苦しむ日本の現状を眺めると地方自治体を取り巻く環境は厳しくなってます。
財政難と絶対的な人材不足により地方自治体主導で手を打つことができる余地がどんどん狭まってます。
国にぶら下がればよいかというと国の方針もモデル地域の募集に躍起になっていて十年一日です。
難局を打破するには思い切った刺激策が必要です。新鮮な発想を持つ若い世代がトップに立つのがいちばんです。
実力派の女性政治家が首長になることを期待します。男性中心の社会の発想を一新する起爆剤になるでしょう。