再び希望の灯をともすために

昨日40代半ばバリバリ活躍しているとある市の男性市議と昼食を取りながら意見交換しました。

場所は藤沢駅前のビル内のイタリアレストランでした。藤沢駅前は昼時でしたがさほど賑わってはいませんでした。

市議から政治家として限界を感じ出して悩んでいるとの相談でした。ある一言が気になりました。

今の日本全く希望がないですからね…と口にしてました。私は確かにそうだとはっとしました。

私の40代の半ばは町長に就任したばかりで燃えてました。彼の希望がないという心情を深刻に受け止めました。

有名なギリシャ神話にパンドラの箱の話しがあります。開けてはならないという箱を開けてしまった物語です。

怒り妬み嫉み恐怖ありとあらゆる邪悪な感情が飛び出した後、箱の底に残っていたのが希望だったと言われます。

希望は、それがあれば絶望しないで済む最後の砦だと言えます。その希望が失せてしまっているのは大問題です。

中世ドイツの宗教改革者のルターは「たとえ明日世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」と述べました。

これはルターのこころの中には希望の灯がめらめらと燃え盛っていたからこそ発せられたと思います。

ところが現代日本には導火線となるべき希望の灯が見えなくなってしまっているのです。

これから社会を背負っていく中堅若手世代がそう感じてしまっているということになるとお先真っ暗です。

先日も大手コンサルタント会社に勤務する20代の女性から優秀な若者が日本を脱出しようとしていると聞きました。

村上龍さんの小説に『希望の国のエクソダス』があります。日本に絶望した中学生たちの物語です。

中学生たちは北海道に土地を購入して新たな国づくりを始めます。北海道はいわば日本の海外の位置づけです。

いよいよ希望の時代が完全に終わり絶望の中で何をするのかが問われる時代になったと見た方が良さそうです。

確かに国会中継で菅総理の暗い表情での決まり切った答弁を繰り返す姿を見せつけられていては希望は湧きません。

しかし国家の指導者に過剰な期待を寄せる姿勢こそが希望が無くなってしまった大きな原因とも言えます。

自ら立ち上がる主体性をなくして寄らば大樹の姿勢に安住しているうちに希望が消滅した可能性が高いからです。

だとすると希望を取り戻すためには国家全体で希望の灯がともるのを待つのではらちがあきません。

それぞれの地域で新たな希望の灯を求めて立ち上がることが日本に希望を再び灯す最も近道ではないかと思います。

それぞれに地域によって目指す希望の灯は異なりますので地域実情を直視して掲げることが必要です。

市町村単位かもう少し広げた地域単位かは別にしてそう大きくない方が掲げやすいです。

現代の日本に希望の灯をともしもう一度元気にするために地域が立ち上がらなければなりません。

首長の役割が重くなっているとひしひしと感じます。首長は、そうした時代認識と自覚を持つことが不可欠です。