40回目の結婚記念日
1981年5月3日の憲法記念日に私は結婚式を挙げました。場所は小田原の報徳二宮神社でした。
結婚式の日にちは意識して選びました。まず忘れにくいということです。加えて憲法記念日です。
場所を二宮尊徳を祀る二宮神社にしたのは父親が町長だったため招待者が多いので広い式場を選んだからです。
二宮尊徳への関心からではありませんでした。むしろ古めかしい人物として避けていました。
開成町長となり郷土の偉人たちの偉業を知り最良の場所を選んだとその幸運に感謝しました。
新婚旅行は中国でした。今と違ってひどく貧しい時代の中国です。妻にとってショッキングな日々だったと思います。
蛇口をひねると黄色い水が出る。万里の長城のトイレは汚くて入れない。冷蔵庫がなくビールはぬるかったです。
中国を選んだのは躍進を予感したからです。的中しました。ただ今ほど覇権指向の国になるとは思いませんでした。
3月末に知人のご夫妻と会食した際に最初から政治家になりたかったのですかと聞かれました。
妻は「母親の苦労を知っているから自分は政治家にならないと言っていた…」と答えてました。
政治家にならないと約束して結婚しました。妻はNHK記者の妻になるつもりでした。
37歳の時に記者生活に限界を感じ勝手に辞めてしまいました。政治家への道の始まりでした。
1993年8月のことです。自民党の一党支配が崩れた時です。血が騒いだとしか説明のしようがありません。
妻の父親は政治とは全く無縁のドイツ語の大学の先生でした。政治を毛嫌いしていました。
NHKに対しても反感を持ってました。そんな育ちをしたのによりによってという感が無きにしも非ずです。
政治家の妻と言っても町長という地域密着の政治です。都会暮らしの妻は驚きの連続だったと思います。
田舎の人は一度受け入れてくれるととても人情に篤いです。次第に慣れて行ったように思います。
町長時代は13年間で残りの6年半ほどは大きな選挙で負け続けました。本当に申し訳なく思います。
政治稼業から足を洗った今ようやく頭を下げ回る世界から抜け出ることができホットしたことでしょう。
家庭裁判所の調停員をするようになり家内というより家外と呼んだほうが良い生活になってます。
在宅時は、同じ敷地内に住んでいる3人の孫君たちの元気さに圧倒されながら暮らしています。
罪滅ぼしには世界一周旅行ぐらいをプレゼントしないと…。実現のめどは全く立ってません。