政治ジャーナリズムの堕落

私自身の悔恨も込めて政治ジャーナリズムの堕落を考えます。政治記事は明らかに精彩を欠いてます。

コロナで苦しむ国民を傍目に主たる関心は解散・総選挙をはじめ権力の動向に注がれてます。

国民からすれば選挙よりお粗末な新型コロナ対応を何とかしてくれと思っているはずです。

現状で解散・総選挙なんて考えることの方がどうかしているのです。あり得ないことを追いかけているのです。

国民の常識的声を探求することなく権力サイドに立ってしまうのは政治ジャーナリズムの性だと思います。

その結果成立してしまうのが永田町の論理です。国民の一般常識とはかい離が生じてしまうのです。

政治家も政治ジャーナリズムを相手に立ち振る舞いを考えますのでずれが生じてしまうのは必然です。

政治ジャーナリズムに携わる政治記者たちはよほどのことが無い限り国民の一般常識に暗いです。

何を隠そう私自身がそうでした。大学を出て神戸と姫路の地方勤務を6年経て政治記者となりました。

このキャリアで国民の一般常識が身に着くとしたら驚異的です。世間を舐めていたと言えます。

私が多少なりとも国民の一般常識に直接触れることができたのは生まれ故郷の町長になってからです。

政治記者時代に偉そうなことをテレビ画面を通じて発していたことを思い出すと赤面してしまいます。

つい最近象徴的出来事がありました。立民党の枝野代表が6月の解散総選挙の可能性に言及しました。

枝野代表はその直前に今はコロナ禍で選挙すべきではないとして内閣不信任案の提出を見送る考えを示しました。

舌の根が乾かぬうちに発言を翻したかに見えます。すべきでないがやるかもしれないので気をつけろという訳です。

一般常識があれば解散・総選挙を始め権力闘争に明け暮れる政治家の発言がいかに空疎であるか見抜くでしょう。

すべきでないならその姿勢を貫き、解散されたらコロナ禍での暴挙の一点突破で立ち向かうべきです。

政治ジャーナリズムは枝野発言のような時に厳しく反応しその使命を果たすべきです。

政治家の政局的思惑に振り回されることなく国民の常識に立ちもどった論評を加えるべきです。

やるべきではいないとしながらあるかもしれないので備えろというのはコロナ軽視につながりませんかと。

政治ジャーナリズムが総力を挙げなければならないのはなぜ日本の政治はこれほどまで危機に弱いかです。

残念なことに表面的な政局の流れを追うことに汲々としています。本質をえぐる姿とはほど遠いです。

政治ジャーナリズムは、床屋政談に堕してます。かつての一員として現状に焦りを覚えます。