菅総理は、自分の言葉を持っているか

NHKのBSPの昭和の選択「立憲政治を守れ!犬養毅 “憲政の神様”の闘い」を視聴しました。

1932年5月15日、海軍の将校らが起こしたテロ事件で凶弾に倒れた犬養毅総理の政治信条を問う番組でした。

番組の進行役でもある歴史家の磯田道史さんの最後の総括の言葉が強く印象に残りました。

政治家は身体に自分の言葉を持たなくてはならないとしてました。官僚のメモを読む政治家と対比してました。

正確を期すためメモを読み上げるのは否定はしないまでも政治家の真骨頂は自分の言葉にあると結論付けてました。

私も同感です。政治家の最大の武器は言論です。言葉の力で説得するのが仕事のはずです。

メモを読まなければ言葉を満足に発することができないとすれば政治家としての力量に疑問符が付きます。

裏舞台での策略に長けていて政敵に怖れられたとしてもそれはあくまでも裏の仕事に過ぎません。

表舞台に出た時には裏技は通用しません。頼りとなるのは国民や住民に向けて発せられる言論です。

菅総理の官房長官時代のすご腕を評価する人は多いです。しかし官房長官は総理の黒子です。

総理となった今は裏ではなく表舞台に立ったのです。言論が勝負の晴れ舞台に昇ったのです。

多くの国民が感じていることとは思いますが菅総理から言論の迫力は全く感じとれません。

磯田さんの言う自分の言葉があるように思えません。身体に自らの言葉を宿しているように見えません。

犬養毅元総理は5・15事件で銃口を向けられた際に発した最後の言葉は「話せばわかる」でした。

真っ向から敵対する相手に対しても言論による力で説得しようと試みようとしたのです。

犬養総理の身体の中に信念として宿っている根っこの精神が「話せばわかる」という言葉に凝縮されました。

菅総理がもしテロリストに銃口を向けられたとして最後に発する言葉はいかなるものでしょうか。

「自助共助公助」ではテロリストの方があっけにとられ銃を下ろしてしまうように思います。

勢いに押されたからではなく撃つに値しないと思うからです。俗な言い方をすればたまではないと見下されます。

政治家として自らの存在意義を、何のために最高権力者になったのかをひとことで発しなければなりません。

菅総理が師と仰ぐ梶山静六元官房長官ならば「愛郷無限」と口火を切り撃つなら撃てとまくしたてたでしょう。

コロナという国家レベルの危機に直面している今菅総理の発言の重みは極限に達しようとしてます。

敵対者をもうならせる渾身の言葉を持たずに総理の座に居座ることは師と仰ぐ梶山さんが許すとは思えません。