人生ノート29~県知事選挙後5~

宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。100ヘクタールを超える荒涼とした大地が広がっている感じすらしました。津波が洗いざらいはぎ取ってしまいました。

残骸のような工場の建物の近くに行くとまるで空襲にあったような様相でした。トラックなどが焼け焦げていました。津波の勢いによる摩擦の凄さでした。

800人に近い死亡者と行方不明者を出しました。避難されている体育館を訪れ一緒にラジオ体操をしました。活気があると感じました。

震災直後の5月、既にどのような復興をすればよいのか住民の皆さんによる話し合いが始まっていました。随分と動きが早いと驚きました。

私が町長の経験があるということで話し合いの場に参加を求められました。若い人から高齢者まで活発な意見が出ていました。

私は自分の町づくりの経験から小学校が中心となると述べました。小学校があればそこを中心にまとまる事ができます。小学校の再建を考えることを提案しました。

この勢いならば住民主導で良いプランがまとまるのではないかと期待しました。しかしその後の閖上地域の動きは私の予想と全く異なっています。

ボランティア活動に行っていて気になったのは名取市長の存在が見えなかったことです。幾度となく避難所を訪れました。私は市長と会いませんでした。

今なお復興計画がまとまらず住民との話し合いが継続していると報道は伝えています。高台の安全な移転先を求める住民との意見調整が続いているとのことです。

2011年5月の段階で気になっていた市と住民との距離が尾を引いてしまっているように思いました。ボタンの掛け違いがあったのではないでしょうか。