神奈川県開成町の現代地域政治史
1965年8月11日は開成町のまちづくりの中でさん然と輝く日付です。
6.55平方キロの狭い町域全てが都市計画法に基づく都市計画区域に指定されました。
町長に就任してわずか2年半の露木甚造がトップダウンで断行しました。
都市計画区域の申請は人口1万人以上という条件がありました。開成町は6065人です。
「理想的な建設を行うためには、強い規制が住民の方に直接関係いたします。」
当時の町広報の文章です。高度成長時代の真っただ中に開発規制の網をかぶせたのです。
土地利用が北部は農業振興地域、中央部は住宅地、南部は開発用地と厳格に3分割されました。
土地利用の基本方針は現在に至るまで堅持されていて開成町の発展の土台となっています。
特筆されるのは条件が不利な農業振興地域の整備を優先したことです。
農道を整備し水田の区画を広げ農業の機械化を進めやすいようにしました。
あぜ道にはあじさいを植えてあたかも公園のような景観の水田地帯が誕生しました。
露木甚造が精魂傾けた開発事業の方は土地の調整に手間取りました。
小田急線開成駅の開業は1985年3月14日で都市計画区域指定から20年が過ぎていました。
露木甚造は前年にこの世を去り夢見た新駅の姿を見ることはできませんでした。
駅の開業は開発促進の起爆剤とはならず土地をめぐる利害調整は困難を極めました。
最終的に決着したのは1998年2月に私が町長に就任して以降のことでした。
時間の経過とともに計画的な土地利用に基づくまちづくりへの理解が進みました。
小田急電鉄と全面的に協力し合って一気呵成に停滞していた開発のアクセルを踏みました。
駅周辺のマンション建設と戸建て住宅の建設を手始めに立て続けに着手しました。
町南部宅地開発、富士フイルム研究所誘致、開成南小学校開校、県による紫水大橋建設。
開成町にしかない美しいあじさいの田園景観を活かし古民家の再生も行いました。
短期間に開発が進んだのは土台となる都市計画がしっかりしていたからです。
開成町の地域政治史は土地利用交渉の歴史と言って過言ではありません。
この厄介な仕事に取り組んだ役場職員を始め関係者が本当の功労者です。
この努力のおかげで開成町は今なお人口増が続き発展の道を歩めています。
人口増にあぐらをかくことは先人の努力に砂をかける行為に等しいです。
現在の府川裕町政にはそうした傾向が見受けられて残念でなりません。
次の世代の新鮮な発想が求められます。来年の開成町長選挙は重要な節目です。
前回出馬し34票差で敗れた現役バリバリ世代の山神裕さんに大きな期待を寄せてます。