プーチンの暴虐の根っこを探る

テレビ画面を通じて伝えられるウクライナの惨状には息をのむばかりです。

キーウ近郊のブチャのように破壊だけでなく集団殺戮が行われた村もあります。

第2次大戦末期の1945年8月9日ソビエト(現ロシア)は旧満州に侵攻しました。

父は満州の国境を守る大隊長でした。激闘により千人の将兵の半数が死にました。

父はその後シベリアに抑留されました、機会あるたびにソビエトの非道に憤ってました。

私は小学生の頃から社会科が大好きでNHKの特派員報告をよく見ていました。

1917年のロシア革命から50年経過したソビエト社会を紹介する特集番組がありました。

小学6年生の時です。テレビを見ていただけの私を父がどやしつけたのです。

嘘っぱちだというのです。今はやりの言葉で言えばプロパガンダだというのです。

ソビエトにとって都合の良い場面ばかりを見せられ放送しているだけだというのです。

父のあまりの剣幕にあっけにとられたことが今でも印象に残っています。

シベリア抑留時代の仕打ちは父にとって記憶から消し去りたくてもできないものだったのです。

憎しみは深くソビエトにだまされてはいけないとの思いは一貫してました。

ロシアによるウクライナへの暴虐を目にすると父の言葉が蘇ってきます。

ロシアはどうしてここまで軍事力を信奉し敵をせん滅しようとするのでしょうか。

私も参加している経済分析研究会という勉強会のメルマガに目が留まりました。

作家の司馬遼太郎さんの「ロシアの特殊性について」という評論を取り上げ論じてました。

1986年に文芸春秋から出版された『ロシアについて 北方の原型』のなかの一文です。

司馬さんによるとロシアの暴虐性は自身が被った血の歴史にあるというのです。

ロシアの大地は数々の遊牧民族の通過点となり集落は常に暴力にさらされました。

その象徴が13世紀から16世紀に渡るキプチャクハン国による支配でした。

チンギスハンの孫による支配が最初です。徹頭徹尾軍事力による支配でした。

反逆すれば村ごと破壊され住民は抹殺されてしまう暴力による支配が続きました。

「タタールのくびき」といわれます。タタールとは遊牧民族の総称です。

長く暴虐の歴史が続いたことがロシア人の心の中に深く刻まれ忘れえぬ記憶となりました。

「被支配者であるロシア民族の性格にまで影響を与えるほどのものでした。」

司馬さんはモンゴル人の軍事支配の影響の深さをこのように記しています。

ロシア人にとって力による支配は反面教師ではなく逆に統治のお手本になったと言えます。

プーチン大統領の異常ともいえる力への信仰の根はここにあると思えてなりません。

 

 

 

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