キューバ危機の再検証

NATO=北大西洋条約機構へフィンランドとスウェーデンの加入が認められました。

中立政策をとっていた両国の方針転換は軍事的なロシア包囲網を狭めることになります。

ロシアの飛び地カリーニングラードへの貨物輸送にNATO加盟国のリトアニアが制限をかけました。

ロシアは猛反発し報復を言明してます。ヨーロッパで緊張が高まっています。

ロシアは意のままに動かせる衛星国の存在を活かし勢力の拡大を図る伝統があります。

衛星国の要請に基づいて武力侵攻をするのです。この体質は全く変わってません。

ウクライナ危機もそうです。ウクライナ国内に人民共和国を一方的に立ち上げました。

かいらい国家の要請に基づいてロシア系住民の保護を理屈に侵略しました。

これに対し西側諸国はロシアとの決定的対立を避けるとして弱腰の対応をとってきました。

力への信奉に凝り固まる相手に理性的な対応をしたところで効果は期待できません。

第二次世界大戦の引き金になったのはナチスドイツに対する宥和政策でした。

しかし力で対抗するのは戦争の危険と表裏一体であることは覚悟しなければなりません。

1963年にキューバ危機がありました。ぎりぎりで核戦争が回避されたとされます。

1959年カリブ海に浮かぶキューバにカストロの革命政権が樹立されました。

アメリカは新政権を認めずカストロはアメリカに対抗するソ連に近づきました。

ソ連はミサイル基地建設を進めました。ワシントンなど主要都市を射程に収めるものでした。

キューバを舞台に両国の緊張は極限にまで高まり核戦争の一歩手前まで行きました。

ケネディ大統領とフルシチョフ首相は妥協し危機を回避しました。英断と言われます。

トルコのアメリカ軍基地のミサイル撤去と引き換えにソ連はミサイル配備を断念しました。

犠牲者はキューバのカストロ首相です。大国のはざまで翻弄されました。

歴史に「もし」はありえませんが米ソ首脳がもっと突っ張ったらどうなったでしょうか。

ソ連の野望を一方的に打ち砕いたでしょうか、それとも核戦争に突入したでしょうか。

キューバ危機は13日間で収束しましたがより緊迫したことは間違いありません。

真相を知る人物が次々と歴史の表舞台から消えたのもキューバ危機の特徴です。

キューバ危機の1年後ケネディー大統領は暗殺され、フルシチョフ首相もその翌年失脚しました。

ケネディーとともに事態収拾にあたった弟のロバートも後に凶弾に倒れました。

プーチン大統領はウクライナ危機に際し核の脅威を脅しの道具に使っています。

キューバ危機はもう一度光を当て直し再検証すべき歴史であることは間違いありません。

記事

次の記事

バルト海と日本