「祭り」とは「待つ理」

93歳になる杉田廣善さんより「新しい道」の会報7月号が届きました。

一字一句無駄がなく流れるように書かれている文章に驚がくせざるを得ません。

杉田さんが大腿骨骨折の手術の後リハビリを乗り越えられたことは紹介しました。

杉田さんは救われたのは使命があるからだと「新しい道」の考え方を紹介することに燃えてます。

「新しい道」の究極の目的は森羅万象を支配する自然の力と一体となることです。

これを「天」と呼んでいます。ただし仰ぎ見るものではないことに注意しなければなりません。

全ての人は「天」の分身を宿しています。これが「新しい道」で言うところの「みたま」です。

理想の生き方は「天」の分身である「みたま」と合体して生きることとなります。

「みたま」との合体を困難にさせる最大の要因は人が持つ自由な心だと言います。

ひとりひとりが自由自在に発想することは大いなる価値だと思うのが通常です。

「新しい道」は違います。自由な心には欲望が紛れ込み「みたま」の存在を隠すというのです。

「新しい道」はいっそすべてをあるがままに受け止めることから始めろと言います。

全部をありがたくいただいているうちに「みたま」からサインが来るというのです。

「不図」やってくるのです。はからずもです。「ふと」の本当の意味です。

このサインを大切にする生き方をしているうちに「みたま」と合体する生き様に近づきます。

理想の生き方を求めてもがいてもダメということです。もがくのは欲望だからです。

悟りたい、悟りたいといくら願ってもそのこと自体が欲望ならば「みたま」には到達できません。

逆転の発想で「待つ」ことが重要ということになります。但し条件があります。

「みたま」の存在と「みたま」の親は「天」であることに確信を持つことです。

確信を持つということは全幅の信頼を寄せるということと同じ意味です。

「みたま」を信頼しひたすら待つうちに「不図」、「みたま」からメッセージがやってきます。

耳元で誰かがささやいたり突然連絡があったりアイデアがひらめいたり現れ方は様々です。

常にこうした状態で生きていることをどう表現したらよいか悩ましいです。

「新しい道」はこうした状態を「祭り」と言います。年中お正月状態です。

「みたま」を信じ「待つ」ことによる贈り物です。「祭り」とは「待つ理」だというのです。

信じ待っていればメッセージが来るといわれても待つ我慢が出来ないのが凡人です。

仕掛けるのが大好きな私のようなタイプには「新しい道」の教えは難題です。

しかし欲に駆られての軽挙妄動ではないかどうかをチェックする指針となってます。