続・福島県相馬地域の二宮尊徳を探る

昨日、福島県南相馬市博物館で見た二宮尊徳像の表情が他のものと異なると書きました。

違いの探求は二宮尊徳とは何かを探るうえで大きな意味を持つと私は思っています。

吉川弘文館から出された『二宮尊徳』は尊徳の伝記の決定版だと思います。

二宮尊徳の実像と神話の部分を丹念に追いその違いを詳述しているからです。

著者は東北大学名誉教授の大藤修さんです。行間から熱気を感じる渾身の書です。

相馬地域を治めていた中村藩による農村再生策については第9章に書かれてます。

尊徳の弟子の冨田高慶や斎藤高行らが中心になって徹底した報徳仕法を展開しました。

藩財政を6分の1に切り詰めて事業資金をねん出したとの記録が残ってます。

中村藩はこの事業を「興国安民主法」と名付けました。名前に目的が込められてます。

一気に領内全域に展開したのではなく条件が整ったところから始め拡大していきました。

尊徳の手法である「積小為大」戦略です。成功実例を見せて広げていくのです。

中村藩は二宮尊徳最後の大事業である日光の幕府領の再生に資金を提供してます。

毎年500両10年間の寄付を申し出てます。再生の成功を物語ってます。

明治維新となり中村藩の報徳仕法は廃藩置県とともに断絶しました。

明治になって二宮尊徳に思想と事業の展開を支えたのは静岡県掛川市の大日本報徳社でした。

指導者であった岡田良一郎は尊徳の最晩年の弟子でした。西洋の近代思想にも触れました。

大藤さんは「殖産興業と教育に力を入れて政治活動も展開した。」と書いてます。

明治国家の歩みに合わせ実利性を強調したのです。「財本徳末論」を展開しました。

二宮尊徳の直系の弟子を自任している富田高慶は容認できないと反発します。

「報徳の名は徳を元にするのであって末にするのではない。狂ったか良一郎」と。

報徳とは徳に基本を置くのが王道であり実利に走るとは何事かということです。

明治以降の報徳運動を支えたのはいわば本家ではなく分家の大日本報徳社でした。

近代国家へとひた走った明治という時代がそうさせたのだと思います。

明治日本は日清日ロの戦争に勝ち世界の強国のひとつに数えられるようになりました。

昭和に入り不不況の荒波に襲われ日本は軍国主義化して行きました。

報徳思想は更に変質を遂げて帝国日本に奉仕するイデオロギーに利用されました。

惨たんたる敗戦を経て戦後日本は復活しましたがバブル経済がはじけ低迷にあえいでいます。

昨今の日本を取り巻く状況は江戸時代末期の幕末を想起させるような状況です。

二宮尊徳晩年の頃といい換えられます。尊徳ならばどう動いたのかもう一度考え直す時期です。