後藤新平と露木甚造

NHKの秀逸なドキュメンタリー番組に「映像の世紀」という番組があります。

最近再編集された番組が放送されてます。6日には関東大震災と東京大空襲を扱ってました。

99年前の9月1日東京を始め首都圏を襲った関東大震災は甚大な被害をもたらしました。

東京の死者は10万5千人でそのうち9割が火災による焼死でした。

帝都復興院の総裁が後藤新平でした。台湾総督や満鉄総裁を歴任した都市計画家です。

後藤はドイツで導入された区画整理という最先端の都市計画を取り入れました。

所有者から土地を少しづつ買い上げて面的に都市づくりを進める手法です。

22メートル幅の計画道路の建設、117の小学校など公共施設のコンクリート化。

災害時に救援拠点となる公園の整備などを強力に推し進めました。

しかし後藤は満足できませんでした。景気低迷により予算が6分の一になりました。

8か所計画していた公園は3か所、44メートル幅の道路は10から3になりました。

後に後藤は都市計画に対する無知と戦うことの困難を回想していました。

1930年に復興祭が営まれました。後藤は前年に71歳で死去しその場には居ませんでした。

私の父の露木甚造は後藤が勤務した旧満州国の国境を守る帝国陸軍大隊長でした。

旧満州国では大規模な都市計画が立案され実行に移されていました。

父も間違いなくそうした都市づくりの姿を目に焼き付けていたと思います。

戦後ふるさとに戻り開成町長となったのが1963年、東京オリンピックの前年です。

日本中が高度成長に沸いているさなかに父は開成町全体に都市計画の網を被せました。

6.55平方キロという神奈川県最小面積の町を無秩序の開発から守るためです。

町域を3分割して農業振興区域、住宅区域、開発区域に位置づけました。

農業振興区域の整備から始め順次計画的にまちづくりを進めようとしました。

高度成長時代に自由な開発を制限するまちづくりの手法には反発がありました。

小田急線開成駅の区画整理事業に対しては反対運動のやぐらが建ったほどでした。

父はそれでも方針を貫き通しました。1985年3月に開成駅が開業しました。

父はその前年にこの世を去りました。後藤と同じ71歳でした。

後藤が推進した帝都復興の規模には到底及ばないことは言うまでもありません。

しかし県内最小の町を整然とした美しい町にするとの強烈な信念は負けていません。

府川現町長は区画整理の苦労と全く無縁なのに人口増を自慢するのが常です。

苦闘を続けた父たちが天上でどんな思いで見つめているかと思うと暗たんたる気分になります。