武村正義さんと小日本主義

滋賀県知事から国政入りして内閣官房長官などを務めた武村正義さんが先月死去しました。

1993年8月の細川連立政権誕生の時の官房長官です。政局激動の中心にいました。

細川政権誕生のひと月半前6月21日、国会会期末のその日は日本政治史の画期のひとつです。

宮澤内閣への不信任案が提出され小沢一郎氏らが自民党から造反し成立しました。

当時梶山静六自民党幹事長の担当記者だった私はホテルオークラに走りました。

党内で政治改革を唱えていた中堅若手の衆院議員が新党結成を決断したのです。

新党さきがけの誕生です。党首は武村さんで鳩山由紀夫さんらが加わりました。

武村新党は小沢さんらの離党へとつながり細川連立政権誕生の引き金となりました。

武村さんは苦学の末大学を卒業し旧自治省へその後滋賀県八日市市長となりました。

労組や社会党などに押され滋賀県知事に就き琵琶湖の環境問題に注力しその名を高めました。

左派に属す政治家でしたが自民党に入り衆院議員となりました。したたかです。

元総理の竹下登さんが武村さんについて語った言葉があります。

「当選の挨拶にやってきたら知事職は当選何回分になるのか聞いてきた。」

竹下さんに近かった野中広務さんから聞いたエピソードです。権力欲満々です。

新党さきがけ結成は武村さんの本性を示す渾身の政治行動でした。

かねてよりの理想を掲げると同時に権力の中枢に近づこうとしたのです。

権力奪取の鬼である小沢一郎さんと手を組む決断をしたのです。

新党さきがけは憲法を守ることを基本とし大国路線を取らないところにありました。

「小日本主義」路線と言って良いものです。小沢さんの「普通の国」路線とは相いれません。

細川連立政権は小沢さんと武村さんの決裂でわずか8か月で幕を閉じました。

武村さんの権力欲を忍ばせた政治手法は若手政治家たちに違和感を生じさせました。

1996年に旧民主党が鳩山由紀夫さんらによって結成された時武村さんは排除されました。

鳩山さんはツイッターで「今こそ武村さんが必要な時代」だと投稿したと報じられました。

武村さんは政治的足跡を再考するに足る存在だと述べたのだと思います。

日本を取り巻く環境はひどく悪化し日本の衰退も留まるところを知りません。

新党さきがけは戦後の日本政治を変革しようとした先駆的挑戦だと考えられます。

武村さんの弟子には枝野幸男前立民党代表や玉木雄一郎国民民主党代表らがいます。

枝野さんや玉木さんはさきがけの理想を現代に活かせないか熟考する責務があります。

とくに「小日本主義」です。防衛力強化が盛んに叫ばれる今日その意義を問い直して欲しいです。