父vs息子

息子にとって父親は厄介な存在だと推測します。
「推測」としたのは私の体験は一般的ではないからです。
40過ぎてからの子供で父は軍人上がりでした。
何度も紹介してますが第2次大戦末期に満州でソビエト軍と激闘を繰り広げました。
4年半のシベリア抑留中もソビエトの共産主義に屈しませんでした。

こんな親を持つとどんな気分を味合うか想像できると思います。
小学校1年の時に父は町長になり圧力は増しました。
恐怖でした。鉄拳制裁もしばしばでした。

緊張感から解放されるには家から離れるしかないと思ってました。
ジャーナリストを目指したのは間違いなくそのためです。
希望をかなえようとNHKを受験した時のことです。
父は神奈川県副知事を通じてNHK人事部幹部と連絡を取ったのです。
副知事とNHK幹部が大学の旧友だからとの話しでした。

この話を父から聞いて私は切れました。
「実力で入るのだから余計なことをしないでくれ!」と食って掛かりました。
さすがの父も剣幕に驚いた様子でした。

父は5期20年町長を務めましたが最終局面は苦難の日々でした。
南足柄市との合併が町民から激しい反対にあいました。
NHK姫路放送局に勤務していた私は里帰りした折に父にきっぱり伝えました。
合併をすると言って来て貫かないのはおかしいと詰問しました。
ダメならば町長を辞めればよいではないかと畳みかけました。
父があっけにとられたように私を見つめました。

父と初めて対等に物言いした局面でした。
父は合併不調の責任を取って町長を退きました。
その翌年急死しました。1984年4月71歳、私は29歳でした。
私は現在でもよき諌言をしたと思ってます。
未練がましく地位にしがみつかずさっそうとしています。

岸田総理の長男は当時の私の年齢より数歳上です。
慶応大学を出て三井物産社員から父親の秘書に転じました。
父に諌言するのではなく逆に父の足を引っ張りました。
公邸で親族の忘年会を開催し悪ふざけの写真撮影。
長男が何のために会社を辞めたか理解できなくなりました。

父を助けようとするならば自らを厳しく律することが不可欠です。
息子が総理大臣秘書官に就けばやっかまれるのは当然だからです。
しかし長男はそんな気はさらさらなかったようです。

親族上げて将来の後継者の階段を昇らそうと長男を秘書官に据えた疑いすらあります。
一族の写真からは総理の公邸だとの緊張感はみじんもありません。
華麗ではなく軽薄な一族です。