勝海舟と小田原との接点はありやなしや…

小田原の歴史愛好家が発行している『小田原史談』という会誌があります。
歴史と文化の伝統がある地域ですので内容は濃いです。

新年号にルポが掲載されました。
筆者は大井みちさんです。

元開成小学校の教諭です。
現在は郷土史研究に精力的に取り組んでいられます。

「『村上欣の碑』に誘われて越後旅』となってました。
テレビの歴史ドキュメンタリーのようで興味を惹かれました。

冒頭を読み目を丸くしました。
勝海舟のめいの墓が小田原にあるとなってました。

勝海舟は私の歴史上のあこがれの人物最右翼に位置するひとりです。
その人物の近しい血縁者が小田原に縁があるのです。


墓は小田原駅から徒歩10分足らずの浄永寺にありました。
名前が村上欣と言い戦後まもなく亡くなられてます。


住職が石碑を刻み欣の血筋と碑を建てた経緯を書いてます。
欣は海舟に可愛がられ勝家で育てられました。


埋葬許可書の住所は小田原市曾我谷津の城前寺ということで再び目を丸くしました。
この寺は源頼朝の時代に仇討ちを果たした曽我兄弟を祀る寺として有名です。

村上欣は新潟県三条市の医者の家の出の熊倉操と結婚してます。
大井さんは三条の隣の市の出身です。

大井さんの血が騒いだのだと想像します。
現地に足を運び調査を深めました。

海舟の曾祖父が著名な鍼師でした。
目が不自由な方々の教育に尽くしたことを確かめました。

飢饉の際には私財を投じて地域の村人を助けた人物です。
のちに海舟という大傑物を出すだけの家系だと思います。

村上欣はいつ小田原に来て何をされていたのでしょうか。
小田原を終焉の地とした理由はなんだったのでしょうか。

大井さんの村上欣を探る旅はまだまだ続きそうです。
次回の報告が待ち遠しいです。

勝海舟信奉者の私もむずむずしてきました。
調べて見たくなりました。

海舟は小田原の後北条時代の統治と小田原生まれの二宮尊徳を高く評価してます。
小田原とつながりがあったとしても不思議ではありません。

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