先憂後楽(せんゆうこうらく)

神奈川大学まちづくり講義、第3回も中島みゆきさんの話題から始めました。
名曲「ファイト!」を取り上げました。

挑戦をするために忘れてはならない歌詞があります。
「私の敵は私」です。

挑戦できない自分にしているのは自分自身です。
他人のせいにしても一切進まないと学生に訴えました。

このような話から入ったのには訳があります。
私の父のまちづくりを考える上で適当だと思いました。

私の父のモットーは「なにくそ負けてたまるか」です。
戦争で旧ソビエト軍と激烈な戦闘を繰り広げて得た精神です。

父の露木甚造は1963年2月に町長に就任しました。
7票差で勝ち上がりました。

最初から大風呂敷を広げました。
小田急線の駅もない純然たる農村を小田原に次ぐ町にすると断言しました。

「ほら甚」とやゆされました。
「ほらは吹いても嘘はつかない」と言い返しました。

この辺りのやり取りは当時の地域政治の躍動を感じます。
現在は随分とこじんまりしてしまってます。

父は口先だけの人物ではありませんでした。
神奈川県で一番小さな面積のまち全てを「都市計画区域」に編入してしまいました。

計画的にまちづくりを進める土台を作りました。
狭い町域を3分割し農村地帯と住宅地と開発地域に分けました。

今日まで続く開成町の大方針です。
住民にとっては土地利用が制限されますので反対は出ます。

父の5期20年間の町政は反対勢力との闘いでした。
基本路線は微動だにせず貫きました。

まちづくりの根幹の小田急線開成駅の開業は1985年です。
父は2年前に町長を退きその翌年急死しました。

追い求めてきた駅の姿を見ることはありませんでした。
それでも後に続く人に貢献できたと満足していると思います。

中国に「先憂後楽(せんゆうこうらく)」という言葉があります。
憂いの種は先に取り除き楽しみは後のひとに回すという意味です。

父はこの言葉のような政治家人生を送りました。
一つの生きざまだと学生に話しました。