日中歴史文化交流センター正式発足へ

今年の2月15日、大雪の影響で交通機関が乱れました。記録的な大雪でした。新横浜の中華料理店で日中歴史文化交流センターの発会に向けてパーティーを開きました。

60人程度の出席者を見込んでいました。朝から結成の連絡が相次いで心配になりました。40人ほどが参加して下さり一安心したことを覚えています。

日中関係は、ここにきてかすかに改善への動きが表面化してきていますが依然として厳しい状況であることは変わりありません。双方の不信感が作った溝は深いです。

しかし、足元の歴史を素直に見つめ直せば日本と中国は切りたくても切れない関係にあることは言うまでもありません。大陸から文化を取り入れてきたのですから当たり前です。

(写真は岩波書店ホームページより)

今、岩波新書の『唐物の文化史』を呼んでいる途中です。中国の文物を意味する唐物という言葉は、長く舶来もののことを象徴する言葉でした。

正倉院の時代から源氏物語の世界、武士の時代になっても日本人、特に権力者たちは舶来ものが大好きで、その中で中国の占める地位は重かったです。

山北町にある酒匂川西堤の文命宮と文命碑

(写真は神奈川県町村会のホームページより 山北町の文命西堤碑)

1707年の富士山の噴火後、酒匂川の治水工事にあたった田中丘隅が中国の治水神、禹王を祀った祠を建立した背景には当時の時代状況が反映したと思われます。

建立の資金を出したのは徳川吉宗です。徳川幕府にとって中国儒教の影響は大きく儒教において治水に功績のあった聖人とされる禹王を祀った一因と見て良いと思います。

明治維新になってすっかり中国のことを忘れ去ってしまったかと言えばそんなことはありません。禹王関連の遺跡でいえば明治以降も禹王の名前が刻まれています。

西洋の土木工学を取り入れて近代化に努めた古市公威の功績を称え、東大の構内に建てられた石碑に禹王の文字が刻まれたのは1934年、日中が戦争寸前の時代でした。

いつの時代にも日中は、つながっているのです。そこに光を当てるのかそれとも目を覆うのかの違いがあるだけだと思います。日本人の姿勢が問われているのだと思います。

日中歴史文化交流センターは、連休明けの5月10日横浜駅西口のかながわ県民センターで集まりを持ち今後の活動方針などを決めて正式発足します。

日中の違いではなく共通項を見つけ、その遺跡が日本中に残っていることを伝えていきます。まずは神奈川の中の中国遺跡をたどっていきます。

中国の文化や歴史に関心を持つ様々な市民研究グループの交流の場を提供していきたいと思ってます。こうした地道な活動が日中間の溝を解消する一助になると思います。