阪神淡路大震災30年、地層となった震災の記憶を掘り返す
NHKに1979年入局し初任地は神戸放送局、4年間勤務しました。
けっこう引っ越しました。
最初は東灘区岡本の住宅街の一角にあるアパートに下宿しました。
古めかしいつくりの有名なパン屋さんが近くにありました。
1981年に結婚して阪神競馬場の近くの宝塚市仁川(にかわ)に移りました。
甲子園球場近くの団地が取れたので引っ越しました。
最初の1年は神戸市内の警察取材担当でした。
毎日市内をへめぐってました。
繁華街のセンター街や南京町の中華街によく通いました。
放送局はトアーロードというしゃれた通りの一角にありすぐそばが異人館街でした。
続いて大阪と神戸の間、阪神間と呼ばれる地域の担当となりました。
山沿いと海沿いでは別の街かと思うほどでした。
海沿いを走るのが阪神電車、真ん中がJRで山沿いが阪急電車でした。
芦屋は高級住宅地のイメージが強いですが海沿いは庶民の町です。
兵庫県警察本部も担当しました。
灘区には山口組の田岡組長の豪邸があり長田区には大幹部の事務所がありました。
その長田区にはゴム工場がいくつもありました。
住宅が入り乱れていて火災の危険性が指摘されている地域でした。
30年前震度7の激しい揺れが神戸一帯を襲いました。
2か月後神戸を訪れ惨状を目の当たりにしました。
直下型の地震のとてつもない破壊力に言葉が出ませんでした。
電車が動かず途中からバスに乗り換えましたがバスの車中で話す人はいませんでした。
神戸の住んでいた一帯は廃墟でした。
NHKのすぐそばの生田神社の屋根が崩れ落ちていたのは衝撃でした。
30年で6回は神戸を訪れていますが行くたびに街は変ぼうしてました。
区画整理が進み整然とした街並みが広がりました。
かつてメモ帳片手に走り回った雑踏はありません。
しかし被災者の悲しみの記憶が消えたわけではありません。
地層のように静かに埋もれています。
少なくとも節目の年に記憶を掘り返す営みは永遠に続ける必要があります。