父の戦争体験を語る

小田原地域で先の大戦の歴史を追いかけ続けている高校の同級生がいます。
元小学校教員の井上弘さんです。

『戦争と民衆』という冊子の発刊を年に3回続けこの3月に第94号を出しました。
井上さんより戦争体験を話して欲しいと要請がありました。

もちろん父から聞いた話をです。
戦後80年で父も喜ぶと思い引き受けました。

10日の午後1時間余りインタビューを受けました。
父は大正2(1913)年生まれで志願して帝国陸軍軍人になりました


ソビエト軍が1945年8月9日旧満州(現中国東北部)に侵略しました。
父は決死隊の大隊長でした。

敵の最新鋭戦車の下に潜り込み爆破するゲリラ攻撃を敢行しました。
千数百人の部下の少なくとも半数以上は戦死しました。

私が幼いころからこの戦闘体験を語ってました。
勇猛果敢に戦った部下の名誉を埋没させてはならないといいう気持ちからだったと思います。

「戦争で死ぬために生まれて来たような者たち」と盛んに言っていました。
忘れられない言葉となりました。


1984年に父が死去した後、菩提寺に父の部隊の慰霊碑を建立しました。
戦争で死ぬために生まれて来た方々を慰霊するためです。

戦後はソビエト(現ロシア)軍に連行されシベリア抑留生活を4年8か月送りました。
シベリア抑留については戦闘の模様ほど話を聴いた記憶がありません。

非道な行為を行ったソビエトの独裁体制への嫌悪感はすさまじかったです。
ソビエトのことを報じるテレビを私が見ていると怒鳴られました。

父が残した手記で抑留生活の残酷さを知りました。
抵抗姿勢を崩さない父は収容所内の日本兵からつるし上げを受けました。

抑留中は上手く立ち回り帰国後は主義主張を貫いた国士のようにふるまう者を嫌ってました。
戦争は父の人物を見る眼を厳しくしました。

近寄りがたい威厳を感じさせる父の人格は戦争によって作られました。
その生きざまは私自身も戦争体験者と勘違いするほど影響を与えてます。