40年目の8・12に思うこと
今年は節目の年の連続です。
日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落の惨事から40年です。
1985年8月12日は事故の衝撃だけが刻まれている日ではありません。
政治記者デビューの日でもありました。
6年の地方勤務を終え報道局政治部に赴任しました。
初めて総理大臣官邸に入り内閣記者室を訪れました。
NHKの官邸キャップは5 つ子のパパの山下頼充さんでした。
新人は3人、山下さんは7時のニュースが終わったら歓迎会をやると伝えました。
日航機の事故で臨時の特別番組に突入しました。
新人の私たちも騒動に巻き込まれました。
新人記者の役割は総理大臣のあとをひとすら追いかける番記者です。
軽井沢で静養していた中曽根総理が官邸に戻ってくると連絡を受けました。
テレビでしか見たことの無い中曽根総理を追いかけるなんてことは不可能です。
政治記者は無理難題が日常なのだという実態を思い知らされました。
NHKの取材体制の落とし穴も大きな口を開けていました。
事故そのものの取材は社会部、官邸取材は政治部、日航の経営問題は経済部、縦割りです。
まるで別会社のようで互いがたこつぼに入っていました。
報道局は政治部が支配していたため政治部はひときわプライドが高かったです。
日航機事故の日からちょうど8年政治部に在職しました。
梶山静六さんや野中広務さんといった胆力と情を兼ね備える大物政治家から薫陶を得ることができました。
人生にとって今も宝物です。
一方でむなしさもありました。
NHKの肩書で大物政治家を追いかけているに過ぎません。
思い悩んでいたちょうどその時に1993年7月突如転勤辞令を受けました。
社内人事抗争の余波でしたが辞めるタイミングが来たと思いました。
小学校の卒業文集で将来の夢とまで書いたNHK記者を8月5日付で辞めました。
8月12日は日航ジャンボ機墜落事故の慰霊の日です。
私にとっては同時に8年間の政治記者生活を思い出させてくれる日でもあります。