野中広務先生、生誕100年の集い
内閣官房長官や自民党幹事長を務めた野中広務先生が生誕100年です。
今年は昭和100年で戦後80年ですので戦争をじかに知る世代です。
2018年4月に京都駅近くのホテルで開かれたお別れの会に妻と参列しました。
3千人の弔問客であふれていました。
生誕100年の集いの案内が届きました。
すぐさま出席の返事を出しました。
1989年元号が昭和から平成に変わった年の夏が最初の出会いでした。
衆院デビューが遅く当選3回なのに還暦を過ぎていました。
高輪の議員宿舎へ夜討ちに訪れた時の印象は今も鮮烈です。
町長だった父と同じ匂いがしました。
京都府園部町の町議から町長、京都府議、副知事そして衆院議員です。
地方政治を知り尽くしてました。
厳しさのなかに温もりがあって毎晩会うのが楽しみでした。
野中先生は酒を口にしませんが私は冷蔵庫から缶ビールを取り出し飲みながら話を聴きました。
1993年8月NHKを退職しました。
自民党幹事長を務めた梶山静六事務所に政策顧問として籍を置き政治家見習いを始めました。
翌年の5月事務所を飛び出し地元に戻りました。
梶山事務所を足蹴にしたと野中先生から一喝され破門されました。
1998年2月に開成町長に就任してから再び野中先生のもとに通うことができました。
町長の大先輩として助言を受けました。
近隣の町長といっしょに野中先生の地元の園部町に視察研修に行ったこともあります。
その後内閣官房長官、自民党幹事長として政界のドンへとなっていかれました。
開成町で何度も講演をしてもらいました。
講演のタイトルは”私は闘う”でした。
野中先生が存命だったら自民党をどうさばくでしょうか。
野中先生なら乱立の総裁選などさせません。
剛腕で候補者を絞りこみます。
総理になる前の麻生太郎さんが震え上がるほど凄みがありました。
野中先生のように黒子となって剛腕を発揮できる政治家がいません。
自民党が混迷から抜け出せないでいる原因です。