「再び戦争をする国にしないために闘う」(野中広務)
野中広務さんの生誕100年の集いの続きです。
野中さんの生前の活躍ぶりを映した映像が流れました。
京都府園部町議から町長、京都府議から副知事、そして衆院議員。
前史があります。
1945年8月15日軍に召集されていた野中さんは高知で終戦を迎えました。
戦争が終わったことを知らず住民の女性から教えてもらったということです。
高知の海岸で腹を切って死のうかと覚悟を決めた時に上官がやってきてぶん殴られました。
そんな度胸があるなら日本の復興のために命がけで働けと諭されました。
野中さんの原点です。
戦争は負けた国はもちろんのこと勝った国にも傷跡を残します。
2度と戦争をするような国にしてはならないという譲れない目標が確立しました。
戦争への道を歩むと懸念される政治の動きに鋭い嗅覚で警鐘を鳴らしました。
1997年国会での大政翼賛会発言は有名です。
沖縄の在日米軍基地用地の収用のための特別措置法をめぐって国会での議論不足を問いました。
沖縄の痛みに向き合わず圧倒的多数派が形成されたことが我慢ならなかったのだと想像します。
時の内閣官房長官は梶山静六さんで同じ派閥の大幹部に物申した形です。
梶山さんは当時新進党の小沢一郎さんと保保連合を指向してました。
野中さんは自社さ派の中核でしたので両雄並び立たずでした。
私は両氏から薫陶を受けていますので両者の気持ちが想像できます。
梶山さんは国会対策の芸術として多数派形成の妙を見せたのです。
これに対し野中さんは情念の政治家です。
沖縄の気持ちに寄り添うという生きざまにより高い価値を見い出しました。
野中さんは高市政権が誕生し維新と連立が成立したことを天上で危惧しているはずです。
戦争を知らない世代が勢いに任せて突き進まないか気が気ではないと思います。
野中さんの薫陶を受けたひとりとして野中さんの思いを軽視することはできません。
再び戦争をする国にしないとの一点は固く守りできる努力をします。