中越地震から10年
(画像は中日新聞より)
23日が新潟県の中越地震からちょうど10年ということで被災地で様々な慰霊の行事が行われたとメディアが伝えていました。
もう10年経ったのかとしみじみ思いました。この地震は私にとって澱のように淀んだ苦い思い出として心に残っています。
地震発生直後、開成町長だった私は災害対応の実践的な体験も積めるということで現地にボランティア活動に行くことを決断しました。
自ら第一陣として管理職3人とともに新潟県小千谷市のボランティアセンターに向かいました。駐車場にテントを張り寝泊まりしました。
管理職の一人が山歩きが趣味でアウトドアに慣れていて大変に助かりました。普段の実体験が野外活動では大いに役立ちます。
ボランティア作業自体は重労働ではありませんでした。全国各地から押し寄せる援助物資を捌いて倉庫に保管する作業でした。
多種多様な物資が送られてきても使えるものと使えないものがあります。消毒用の医療品ニーズが高かったことが記憶に残っています。
29日の朝に出て31日の深夜開成町に戻りました。一生懸命人のために役立つ行動をしたという充実感がありました。
11月1日朝8時半過ぎ、私のすがすがしい充実感は吹き飛びました。一緒にボランティア活動に参加した管理職が倒れました。
町長室に活動報告に入った途端に崩れるように倒れました。くも膜下出血でした。意識がなく直ちに保健師を呼んで緊急手当てをしました。
病院に搬送され、手術を受けました。何とか一命を取りとめましたが障害が残りました。現在も車いすを使っての生活です。
一番下の息子さんが高校生でした。病院で息子さんと顔を合わせた時に申し訳ないと声をかけたことを覚えています。
直接の原因は不明です。ボランティア作業が引き金になったかどうかは医学的には立証できません。でも要請したのは私ですので責任あります。
公務災害に当たるかどうかが裁判で争われました。昨年4月町長が派遣したボランティアは公務に当たるという判決が東京地裁で出ました。
誤解の無いように、町が争ったのではありません。保険を支払う側と倒れた職員とで裁判が起こりました。妥当な判決だと思います。
判決が出たからと言って本人や家族の皆さんのご苦労が軽減される訳ではありません。痛恨の思い出として残っています。
原理原則としては、町長が命じる場合は、最初から公務として明確に位置付けて派遣するのが正しい選択です。
ボランティアという言葉の響きに自分自身いささか酔ってました。公務員たるものこのくらいのリスクを自ら取るのは当然だと思ってました。
あと、町に余計な財政負担をかけたくないという気持ちもありました。最初から公務として位置付けて明確な任務を要請していれば良かったです。
事実上の町長命令と受け止めざるを得ないのにボランティアとして派遣を要請したやり方がまずかったということだと思います。