勝海舟が高い評価を与えた北条早雲以来の小田原の治世

氷川清話 (講談社学術文庫)

(勝海舟 『氷川清話』 講談社学術文庫)

1月31日、小田原で郷土の偉人の生涯を見つめ町づくりに活かす地方自治体の集まり「嚶鳴(おうめい)フォーラム」が開かれました。

ブログでも紹介しました。嚶鳴とは、鳥が集まって鳴き合うという意味です。中国最古の詩集からの言葉です。難しいですね。

私のブログを良く読んで下さっている方から「嚶鳴フォーラム」を紹介したブログは、一度読んだだけでは理解できなかったと言われました。

フォーラムの名称が難しいので気合が入り過ぎて言い回しを難しくしてしまったかと反省してます。もっと判り易く書かなければと反省してます。

「嚶鳴フォーラム」で講演された歴史小説家の童門冬二さんが幕末から明治にかけて活躍した勝海舟の話しをされていました。

私は勝海舟の大ファンです。西郷隆盛と二人で向き合い江戸城の無血開城を決断し断行したその胆力は半端ではありません。

西郷隆盛の私心のない行動も尊敬して止みませんが勝海舟のこだわりのない颯爽とした生き様は惚れ惚れとします。

2人は、日本の大恩人です。幕末に佐幕派と勤王派に分かれて内戦になってしまったら江戸の町は焼き払われその後の復活は容易ではなかったはずです。

童門さんは勝海舟の言葉を集めた『氷川清話』について触れていました。勝海舟は小田原の政治と二宮尊徳について誉めていると語っていました。

私も勝海舟の『氷川清話』は何度か目を通したことがあります。歯切れが良く論旨明快です。これぞ判り易いという言葉が並んでいます。

著名な評論家の故・江藤淳さん、勝海舟研究者の第一人者の松浦玲さんが編集した講談社学術文庫版の『氷川清話』を読み直しました。

二宮尊徳について「至って正直な人だったョ。(中略)時勢が人を作る例は、おれは確かに見たョ。」と時代が求めていた人物だと評価してます。

小田原について「日本国中で、古来民政のよく行き届いたところは、まづ、甲州と、尾州と、小田原との三カ所だろうよ。」と極めて高い評価です。

「信玄や、信長や、早雲の遺徳は未だこの三カ所の人民に慕われて居るらしい。」と続き三人の戦国武将の功績を語っています。

北条早雲はなかなかの手腕家で当時横行していた堅苦しいしきたりを排し税金を安くして民衆のための政治を行ったと評してます。

江戸時代、小田原辺りから関八州にかけてからが一番税金が安かったのは早雲の政治のおかげだと話しています。

小田原合戦で北条氏が滅んで徳川家康が関八州に入って来た時、税金が安いので迷惑だったはずだとさえ語っています。

小田原評定何て話はどこにも出てきません。勝海舟の高い評価を小田原を始め小田原藩に属していた地域の人たちは誇りに思うべきです。

そして勝海舟に一目も二目も置かれた小田原を中心とする地域がどうであったのかを学び、その良さを今日に活かすことが大切です。

勝海舟の言葉、ほんの120年から130年前の話しです。当時の小田原を振り返るのは難しくありません。その良さの再発見が求められています。