心優しき労働運動家を偲ぶ会

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昨日、川崎市労働会館で川崎を中心に労働運動に取り組んでこられたある方を偲ぶ会がありました。50人ほどの参加者でした。

瀬川信雄さんという方で享年69歳でした。肺がんでした。若すぎる死です。もう少し元気でいて欲しかったと思えてなりません。

瀬川さんはバリバリの左翼の労働運動家です。東京のご出身で大学は早稲田、川崎市に就職してから一貫して労働運動に関わって来られました。

日本労働党という小規模な政党に所属し幅広い左翼組織の連帯組織、「自主・民主・平和のための広範な国民連合」の活動に専心してました。

こうした経歴だけを聞くと、とげとげしい戦闘的な活動家のイメージを持たれるかもしれません。お会いした印象はそうしたイメージは皆無です。

穏やかな語り口で物腰が柔らかい方です。それでいてしっかりとした信念を持ち合わせていて説得力ある議論をされます。

一度川崎市の市議選に出馬された経験もあるとのことですが、表舞台で活躍する政治家ではなく裏方でしっかりと支えるタイプの方でした。

瀬川さんと私がお付き合いをするようになったきっかけはおととしの6月に日中問題を考えるシンポジウムを開催した時からです。

前中国大使の丹羽宇一郎さんをお招きして講演会を横浜で実施しました。300人の方々が集まり大成功でした。

準備の過程で瀬川さんと何度もやり取りしました。瀬川さんの穏やかさに魅かれました。黙々と下働きされる姿に目を見張りました。

昨年の7月には日中国交正常化の立役者の一人元全日空社長の岡崎嘉平太さんに学ぶ会の開催するため一緒に取り組みました。

そして10月18日、野中広努元内閣官房長官や柳沢協二元防衛庁官房長らを招いて大きなシンポジウムを企画しました。

瀬川さんの体調が徐々に悪くなりました。途中から準備会合に出てこれなくなりました。シンポジウムの当日の夕方私の携帯が鳴りました。

「どうしても行きたいと思っていたが体調が悪く出れない。」と弱弱しい声でした。「お大事に。」と答えました。

最後のやり取りでした。瀬川さんはその一か月後に亡くなられました。偲ぶ会に出席されていた息子さんがこのシンポジウムについて触れました。

「直前まで体調が悪いのを押して参加しようとしていた」と言われていました。瀬川さんにとっての最後の仕事の一つだと言えます。

瀬川さんの息子さんの話が印象に残りました。父親の生前の行動を聴けたことは今後の人生にとって意味あるという趣旨の話で締めくくってました。

父親と息子はたいていは会話は余りありません。息子さんにとって偲ぶ会で聞いた父の話しは初耳の内容が圧倒的だったと思います。

父の生き様が深く心に刻まれたと思います。初めて父の背中がはっきりと見えた瞬間だと思います。ここから父との本当の会話が始まります。

私も経験があります。父の死後14年後町長に就任して父の行った業績を調べ直して初めて父の実像を知ったといって良いです。

そこから父と本当の対話が始まりました。瀬川さんの息子さんは30代後半ぐらいに見えました。父とよく語り合い人生を切り開いて欲しいです。