酒匂川流域を国管理の一級河川とする地域運動を興す!

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(酒匂川九十間土手治水碑)

1868年から明治維新が始まりました。1871年の廃藩置県によって幕藩体制は崩れました。小田原藩は無くなりました。

神奈川県西部の地域政治を考える際に決定的変化がもたらされました。酒匂川流域の一体的な管理ができなくなったことです。

酒匂川は富士山と箱根外輪山、丹沢を源流とします。富士山の南東斜面と箱根外輪山に降り注いだ雨の水を集める鮎沢川の流域が外れました。

上流部の水源地帯が静岡県となりました。中流と下流部は小田原県、直ぐに名前を変えて足柄県の地域となりました。

治山治水は政治の基本です。流域全体を一体的に管理するのが自然です。分断されてしまったことは管理を難しくさせます。

酒匂川の管理をめぐってさらに追い打ちがかかりました。1876年に小田原県が廃止され神奈川県に吸収合併されました。

小田原は県庁所在地の立場を失い横浜を県都とする神奈川県の1つの地方都市になった訳です。求心力が減じました。

これも大きな影響をもたらしたことは間違いありません。県庁所在地が流域の管理の中心を担うと担わないでは大違いです。

酒匂川は全長46キロと短いですが30キロは山間地を流れ足柄平野に流れ込む急流河川です。管理が難しく暴れ川と言われてきました。

一体的な管理の体制が廃藩置県によって失われたことは極めて遺憾だと思います。自然を配慮せず行政の勝手で管理区域を決定しました。

見直すチャンスはありました。1964年の河川法の大改正の時です。国管理の一級河川と都道府県管理の二級河川の区分けができました。

国土保全や国民経済にとって重要な河川は国管理の一級河川、それ以外を二級河川としました。酒匂川は二級河川となりました。

なぜなのか本当に不思議です。当時神奈川県はおろか日本の政治に絶大な影響力を持った河野一郎氏が健在でした。

河野一郎氏は、東名高速道路の厚木インターチェンジから小田原へと結ぶ自動車専用道路の小田原厚木道路の建設を強引に成し遂げました。

東名高速道路の大井・松田インターからまっすぐ小田原へ南下する国道255号線の建設も河野一郎氏の剛腕の成果です。

道路の建設にここまでこだわった河野一郎氏ですが治水には関心を示さなかったのでしょうか。結果として後世に禍根を残したと言えます。

酒匂川は静岡県と神奈川県の2つの県にまたがり管理も難しく世界の観光地箱根を抱え経済的にもそれなりの影響があります。

一級河川として国管理に指定しても十二分過ぎるぐらいに理屈が通ったはずです。神奈川県西部の地域政治の分岐点でした。

過去を悔いても時間は元に戻りません。もう一度酒匂川流域の一体管理を目指す取り組みをやり直すしかありません。

箱根の火山活動の活発化はなかなか収まりません。富士山の噴火の危険性もあります。昨今のゲリラ豪雨は半端ではありません。

人口減少社会の急展開の中で海外の観光客を増やす政策は国の活力維持の決め手です。富士箱根伊豆地域はその中心地です。

国土保全の意味からも国民経済的な意味合いからも酒匂川流域を国が一体管理する条件は完璧です。足らないのは地域の声です。