恥の感覚を忘れかけている日本人
日本人論と言えば必ずこの一冊が取り上げられます。アメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトの『菊と刀』です。日本人は恥の文化だと分析しました。
日本人が最も気にするのが世間体です。人間関係の中の評価です。そんなことをしたら世間様に笑われる、恥だという風につながります。
ベネディクトの指摘は妥当だと感じた日本人は多いと思います。しかし昨今、恥の感覚を日本人は忘れてしまったかのような事態が相次いでいます。
東京オリンピック・パラリンピックをめぐって新国立競技場の建設問題のどたばたに続きエンブレムが突如撤回されました。この場合の世間体は国際社会です。
世界的に恥をかいたはずです。しかし、記者会見に登場したオリンピック組織委員会の武藤敏郎事務総長の表情からは恥の感覚はみじんも感じませんでした。
武藤さんは元財務省の事務次官でミスター財務省といわれた官僚の中の官僚です。国家運営を知り尽くしている存在です。記者会見は他人事のようでした。
国家官僚出身者ならば日本国家に恥をかかせてしまったという感覚がにじみ出ても良いはずです。見て取れません。痛切な恥の痛みがなければ責任感も出ません。
誰が最終的な責任者かというと森喜朗元総理大臣であることは衆目の一致するところです。組織委員会のトップですので当たり前です。
森さんのテレビでの発言を見ていますと第一印象は年を取られたなという感じです。声が弱弱しいです。意気消沈しているからではなく年齢を感じました。
森さんの発言からも世界に迷惑をかけてしまったという痛切な恥の痛みを感じませんでした。それよりも早く事態を鎮静化させることに関心が向いていました。
あれこれいちゃもんをつけることによって東京オリンピック・パラリンピックの開催がおかしくなったらどうするのかというのが本音だと受け取りました。
組織委員会のトップとナンバー2がこれでは心機一転の出直しは難しいと思いました。この先、恥の上塗りにならなければ良いと心配になります。
どうしてこのようになってしまったのかに思いを巡らすとそもそも何のために開催するのかという根本が国民の間で共有されていないからだと思います。
福島の原発事故の後始末をはじめ3・11からの復旧・復興は途上です。その後も日本中で災害は頻発しています。経済格差は広がり地方の人口減少は顕著です。
なぜ2020年にオリンピックを開催するのか首を傾げるのは常識です。ただ単にお祭り騒ぎをして盛り上げれば日本の活力が上がるとは思えません。
根本的な疑問を引きずりわだかまりは残っているものの決まった以上は反対しても仕方ないので出来る協力はしようという国民が多いと思います。
心から燃えていません。国民の支持という土台が強固ではありません。その上に立つ組織委員会の首脳陣は痛切な当事者意識を持っているように感じません。
まずはリーダーから国家に恥をかかせてはならないという日本人が本来持っているとされた感覚を取り戻すことから再出発して欲しいです。