平野元松田町長の思いを受け継ぎ娘の由里子さん町議選出馬

昨日からお隣の松田町の町議会議員選挙が始まりました。定数12に対し13人の出馬です。昨晩開かれた平野由里子さんの集会に参加しました。

平野さんの父上は元松田町町長の平野興二さんです。21世紀の幕が開いたばかりの2001年1月7日に61歳の若さで亡くなられました。

平野さんは、元々は旧建設省のキャリア官僚です。1981年の町長選挙に出馬して落選。1985年の町長選挙に再挑戦し初当選しました。

建設官僚として日本全体を見てきた経験の持ち主が故郷の小さな町に戻り町長に就任したことはちょっとした事件でした。当時は地元の有力者が町長になる時代でした。

町づくりに強い情熱があったのだと推測します。その後3期連続当選を果たしました。1997年9月の町長選挙で4選を目指しましたが敗れました。

平野さんは失意の中で病が見つかりました。末期がんでした。闘病生活を送りながら平野さんは地域の新聞に自らの町づくりの体験をつづりました。

『足柄の小さな町から』という冊子にまとめられています。死の目前に書かれた「病床にて」という一文で歩んできた人生を振り返っていられます。

昭和を代表する詩人の一人高見順さんの詩に心を揺さぶられたと書かれています。「新聞少年を讃える詩」という題です。この詩を読ん平野さんは深く泣きました。

「何かを俺も配達しているつもりで 今日まで生きてきたのだが 人々の心に何かを配達するのが 俺の仕事なのだが この少年のようにひたむきに 俺は何を配達しているのだろうか おはよう 健気な少年よ」

町づくりに情熱を賭けて尽くしたつもりだが全てが伝わらなかった悔恨があったと思います。新聞配達の少年のように純粋さを取り戻し生きようとの決意したのだと思います。

最後に歌を詠んでいられます。「風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな」、自らの町づくりへの思いが消えてしまう寂しさを抱いているようです。

昨晩の集会で私は平野元町長のこの歌を紹介させていただきました。出馬された娘さんの由里子さんに亡くなられた父上の思いをつないで欲しいと願いを込めました。

松田町と言えば松田山の開発です。ハーブガーデン、お山のポッポ鉄道、そして早咲き桜です。山に入った寄地区に作ったふれあい動物村もあります。

松田山に美術館を建設しようという構想もありました。これは、とん挫しました。環境と観光と文化を一体化させようという平野さんの思いが見て取れます。

松田は交通の利便性の高い町です。小田急線新松田駅とJR御殿場線松田駅があり小田急線新松田駅は一日24124人で開成駅の倍以上です。

駅前広場は狭くバス、タクシー、一般の乗用車、歩行者が入り乱れます。建設官僚だった平野さんは腕を振るいたいと天上でさぞかしやきももきしていることでしょう。

由里子さんは昨日の集会で「父と私は違うと思った時期があったが選挙戦を通じて町を回り父の残した町づくりの成果を見て考えを改めました。」と語ってました。

物事を成就させるには強い思いがなければなりません。平野元町長の熱い思いが娘の由里子さんへとしっかり受け継がれれば必ず花開きます。期待してます。