禹王サミットin臼杵報告2
茨城県常総市の鬼怒川の土手決壊の被害は広範囲に及びました。6.55平方キロの開成町が6つも入るほどの面積で浸水被害が起こりました。
(禹王サミットin臼杵)
禹王の治水の意味をもう一度見つめ直す必要があると思います。現代への応用を考えるべきです。禹王サミットの総括の中で私はこの問題を取り上げて指摘しました。
禹王の治水の精神は水を無理に堰き止めずに流すことだと言われます。中国の古い言葉では「疏(そ)」の治水といわれます。疏水の疏です。
疏の治水に対抗するのは「湮(いん)」の治水と言われます。埋めるという意味です。氾濫原を埋めて水を止める治水と言って良いです。
伝承によれば禹は疏の手法を採用して黄河の治水に成功し、父親の鯀(こん)は湮の治水で黄河を治めようとして失敗したと言われています。
現実的にはどちらか一方に偏るのではなく場所に応じて手法を採用して治水を行ったのだと思いますが基本的な考え方として二つに分けることは出来ます。
日本で禹の治水の考え方を取り入れて治水を行った代表的な人物は武田信玄です。武田信玄は中国の代表的な兵法家の孫子の兵法にも通じていました。
禹の考え方と孫子の考え方には共通性があります。勢いを利用するという柔軟な発想です。無理なことはしないで自然の力を利用しようとします。
治水への応用を考えた場合、禹の治水、孫子の兵法の考え方を形に表したのが二重堤防、「かすみ堤」です。水が侵入できるように二重にした堤防の形式です。
大水の時に水が逆流して一時的な遊水地になりピーク時の本流の水かさを下げることが可能です。水の勢いを巧みに利用した治水術だと言えます。信玄堤が典型です。
禹王サミットの開かれた大分県臼杵市でも江戸時代の中期、1720年に疋田不欠(ひきたふかん)が築いた堤防も二重堤防であったことは昨日紹介しました。
臼杵市では当時の堤防の姿は無くなり近代的な連続堤防が築かれています。しかし、武田信玄の故郷の山梨県の富士川上流や神奈川県西部の酒匂川では残っています。
禹王サミットには国土交通省時代、時代富士川の治水を担当された竹林征三さんが参加されていました。2017年の禹王サミット開催に向けて中心人物です。
竹林さんのお話によりますとこの度大水害が発生した鬼怒川では昭和になってから「かすみ堤」を造った唯一の河川だということでした。
どの地域に何か所造ったのかといった詳細まで伺うことはできませんでした。かすみ堤をもってしても制御できない大水が出たことは間違いありません。
しかし、鬼怒川流域い全体としてかすみ堤の機能を活かした治水を展開していれば被害を小さくできたのかなど検証しなくてはならない重大な課題です。
中国の治水神・禹王を探求することは過去の歴史を追い求めることに留まりません。禹王の治水は現代の想定外の大水への対応についての問題提起でもあります。
武田信玄のように禹王の治水を日本の実情に合わせて応用し巧みに水を御した先覚者がいます。禹を学ぶことは武田信玄に通じ現代の治水へとつながっていきます。