進化を続ける治水神・禹王研究会に参加して。2
中国の治水神・禹王に関連した遺跡は全国各地で発見が続いています。しかし地名となると依然として富士川の上流部の「禹之瀬(うのせ)」のみです。
治水神・禹王研究会の大脇良夫さんと植村善博さんが編集した『治水神・禹王を訪ねる旅』の中で「禹之瀬」について紹介されています。
富士川沿いにある山梨県富士川町に「富士水碑」があります。富士川を開削し水運を盛んにする事業は禹王でさえ行うことが出来ないほどの難事業だと刻まれています。
水碑がある鰍沢地区から下流部分の一帯を「禹之瀬」と呼んでいます。徐元小学校の応援歌や地元の民謡でも「禹之瀬」が謡われています。
「治水神・禹王研究会誌」の第三号で佛教大学歴史学部教授の植村善博さんが福島県における新たな地名発見への取り組みを記載されていました。
福島市の北東10キロの山地に「禹父山(うふさん)」という山があります。伊達市の行政区域になるということです。命名の由来ははっきりしています。
地元、旧高子村(たかこむら)の豪農で儒学の見識も深かった熊坂覇稜が江戸時代の中期に命名したということです。命名に至る経緯に特色があります。
中国の唐の時代の高名な詩人、王維が絶景の地20カ所を選んで名を付けたという故事にならって高子村の景勝地を選んで名を付けて行ったというのです。
現在でも高子二十景は存在しその中に「禹父山」は残っていて標柱も立っています。しかしあくまでも熊坂覇稜が文学的に創作して付けた山の名前です。
元々の名前は「内山」ということです。「うち」を「禹の父」、「うち」と当て字をしてしゃれたと推定されます。地名とは言えないと結論付けていられました。
京都の研究会で植村教授に質問しました。儒学の見識が高かった熊坂覇稜があえて禹の字を当て字とした可能背もあるのではないかと思ったからです。
植村さんは証拠がないので何とも言えないと答えられていました。私は地名とは言えないかもしれないが漢学の素養を背景にした立派な文化遺産だと思いました。
江戸時代の知識人の漢学の素養の深さには驚かざるを得ません。明治時代以降西洋の学術文化の流入によって中国の漢学に基礎を置く文化はすっかり影が薄くなりました。
中国の故事にならって地名を付けるなどという発想は現代の日本人には及びもつきません。「禹父山」の名を創作した事例は日本の中国文化の再発見です。
日本は本当に外からの文化の流入に熱心でいつの間にか自らのものにしてしまいます。江戸時代までは中国がお手本です。こちらは歴史がありました。
明治時代からは欧米です。歴史の積み重ねのある中国文化の方はあっさりと脱ぎ捨てました。そして今日本はお手本がなくさまよっています。
西洋文化の限界も見えて学ぶ対象が無くなったからです。再出発するしかありません。その第一歩として歴史ある中国文化の伝統を見つめ直す取り組みが必要です。