宮城県訪問記2

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宮城県登米市でのミニ講演の後3・11の津波で壊滅的被害を受けた気仙沼市に移動し波路上牧(はじかみまき)地区の丘の上にあるトレーラーハウスに荷物を下ろしました。

トレーラーを改造し家族で滞在できるような簡易ホテルになっていました。5人で泊まりました。二階建てになっていて部屋は三室、キッチンとリビングもありました。

丘を下って再び登ったところにある地福寺で住職の片山秀光さんから話を伺いました。3・11からの復興に向けて懸命に頑張っていられる僧侶です。

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丘の上にある寺の入り口には慰霊碑があり鐘が架けられていました。標高13メートルの地点に津波は襲ってきて本堂の入り口の上2.5メートルほどの高さに達しました。

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津波の到達地点の印を見上げあ然としました。ここにいたらひとたまりもないと実感しました。住職や家族は外に出ていて助かったということでした。

寺の近くには市の指定した避難場所もありました。津波は襲ってきました。二方向からきた津波がぶつかり勢いを増してこのあたり一帯を飲み込んだということでした。

偶然、襲われた時に避難場所にいて助かった女性の方が寺に来ていられました。津波に巻き込まれたものの樹木にかかり浮き上がることができました。

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地域のリーダーの役目を担っていたご主人は命を失いました。言葉をかみしめるように話される女性の話しを伺ってただただうなづくしかありませんでした。

住職が一番気にしていたのは高い防潮堤計画により自然の海岸の景観が全く失われてしまうということでした。いくら堅固と言っても完全には防ぎ切れません。

これは本当に難しいところです。今すぐに防御するためにはコンクリートの壁を作るのが早いです。しかし完璧ではありません。また、美しい景観は失われます。

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住職はとにかく樹木を植えることを推進していました。「海の里創造基金」を立ち上げて寄付とボランティアを募り精力的に実践されていました。

被災者の遺族の方から寄付を受けた土地に様々な樹木が植えられていました。「春彼岸津波寄せ来し浜に立つ我が曾祖父も波に消えたり」という歌碑がありました。

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詠んだ方は小学校の女性教諭で曾祖父の悲劇を詠ったのですがその後自らも津波に飲み込まれ命を落としました。朝日歌壇の入選作品でした。

住職と別れる際にこのお寺は宗派は何ですかと伺いました。住職は「みなの宗(衆)」ですと即座に答えられました。まいったと思いました。

個々の宗派を越えてあらゆる命のために宗教は存在するという理想をジョークで表現されるセンスは並大抵ではありません。地に根差した偉人のお一人です。

夕食を取りながら被災者の方の話を伺いました。ボランティアの方々に勇気をもらったと感謝されてました。ボランティアの真心は目に見えないちからとなっています。

大災害は描いていた人生行路を一変させてしまいます。しかしそれにもかかわらず立ちあがろうとする人たちの営みを伺って自らを奮い立たせたひと時でした。

 

 

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