宮城県訪問記3
18日は、南三陸町に伺いました。3・11の津波で根こそぎさらわれた沿岸部は南三陸町役場防災庁舎を除いて急ピッチで基盤整備事業が進められていました。
女性職員が最後まで住民に避難を呼びかけ命を落とした防災庁舎は残されていました。建物をほぼ正面から見ることのできる場所には花が供えられていました。
南三陸町は生まれ変わるという言葉が相応しい様相でした。山を削り新たな市街地を造成し、削った土は沿岸部に運ばれてかさ上げされ開発用地や農地として活用されます。
UR、旧住宅都市整備公団と大手ゼネコンが組んで進めている大規模な復興事業です。かつての南三陸町の景観はなくありません。新しい町の誕生です。
南三陸町役場で総務課長からお話しを伺うことが出来ました。役場は高台に移転し仮庁舎で業務を行っています。新しい庁舎は来年度完成予定です。
南三陸町役場は今も三分の一の職員、およそ100人が他の都市からの派遣職員に支えられています。神奈川県からは三浦市の名前がいの一番に挙げられました。
津波で36人の職員が犠牲になりました。この悲劇に話が及んだ時、総務課長の言葉が一瞬詰まりました。多くの仲間を失った心の痛みが伝わってきて身が引き締まりました。
リアス式海岸の道路を車で走っていると標高の高い山中を走っているのではないかという錯覚に捉われます。背後から津波が襲うこともあります。
想定していなかった場所へ北上川を遡ってきた津波が押し寄せ84人の犠牲者が出てしまったのが石巻市の大川小学校です。現場に立つと海は近いのに海が見えません。
山へ逃げる時間的余裕はありました。しかし状況が判らずとっさの判断ができませんでした。地震イコール津波の危機意識が足らなかったのか…、取り返しがつきません。
人の命を預かる仕事の過酷さを思いました。大川小学校の悲劇を安直に考えることがあってはなりません。あらゆる想定をして備える訓練の大切さを痛切に感じました。
漁業と原子力発電所の町、女川町も駆け足で見て回りました。ここも町の中心部は壊滅しました。しかし巨大な防潮堤の建設をこのまちは選択しませんでした。
既に水産関係施設は再建され活気を感じました。施設の集約が進み新しい設備を導入していますので経済的には強みです。反転攻勢の拠点だと思いました。
女川駅には驚きました。本数は一時間に一本もありません。でも駅そのものが賑わいの拠点になってました。温泉があります。小規模ですが物産店もありました。
帰りは石巻駅から仙台に出て新幹線に乗りました。ロードレース用の自転車をたたんで乗り込んでくる乗客が目立ちました。宮城県の沿岸部でロードレースがあったからです。
「ツールド東北」、復興を目指して河北新報とヤフーが主催し今年で4回目です。首都圏をはじめ全国から人を集めますので経済効果あります。
16日から18日までの三日間、3・11から5年半の宮城県を垣間見ました。復興に向けて課題はあります。一方で宮城県の持つ可能性もたくさん知ることが出来ました。