「如是我聞(にょぜがもん)」私は、このように聴きました。1
(杉田廣善氏)
本当に大切なことは、書物では学べません。直接聴いて確かめるしかありません。しかし、何度聴いても忘れてしまうから不思議です。繰り返すしかありません。
「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉があります。「私はこのように聴きました。」という意味です。偉人の話は弟子たちが近くで聴いた話をまとめたものです。
孔子の『論語』にしてもそうですし、お経も釈迦の言葉をまとめたもので本人が直接したためたものではありません。本当の偉人は書を残してません。
杉田廣善さん、86歳、この方の話も「如是我聞」として残さねばという使命感に駆られるような深みのある中身です。ブログでも何度か紹介しました。
月に1回、開成町で開かれる杉田さんの講話を聴く会は、東京など遠くからも熱心な参加者があります。7日久しぶりに杉田さんの話に耳を傾けました。
「朝という漢字をばらすと、十月(とつき)十日(とうか)になります。人が胎内にいる期間です。起床は、人の誕生です。オギャーの代わりにありがとうと感謝しましょう。」
「思うという感じは、田んぼに心と書きます。田んぼは、おへその奥にあります。そこに人の心がくっついて思いとなります。思いは一人一人の欲に左右されます。」
「人が死ねば、欲は取れます。心が無くなり、田んぼだけが再びあの世に還って行きます。あの世とは、神の世界ではなくもっと上位の天が支配する世界です。」
「神にすがり祈って自分だけが良くなろうというのは欲に過ぎません。何かありがたいことがあるからと誘う宗教はインチキです。信者の数も減って来てます。」
「拝むのならば自分の田んぼ、天から分け与えられたみたま様を拝むべきです。一人一人、本当の自分は、天からの分かれです。欲そのものである心がその姿を見せ無くしてます。」
「本当の自分、みたま様の意思を知りたければありとあらゆる事象を嫌がらずに喜んで通るしかありません。苦しみは消え本当の姿が見えてきます。」
「天は守ってくれます。安心してこの世を精一杯生きることが大切です。あれこれと頭で迷うよりも喜んで苦を通り抜けることで違う世界が開けます。」
「日本という国は、天皇という連綿として続く存在をいただく根っこを持った特別の国です。偉いという訳ではなく外国とは異なるという意味です。」
「天の理からすれば根っこを持った日本はかけがえのない存在です。その日本という国が世界からいじめられ苦難に陥ろうとしています。天に取っても一大事です。」
「日本はこれから大変な時代に入ります。天の理を知り敢然と立ち向かう勇気を持つ人たちが必要となります。その時に備えなければなりません。」
私自身の意訳であることは断っておかなくてはなりません。しかし杉田さんが発する言葉のエッセンスは捉えていると確信を持っています。
皆さんはこの言葉を聴いてどう思われますか。えせ宗教の類と思われますか。それとも真実の言葉として胸に刻まれますか。一人一人の自由だと杉田さんは言われます。