「如是我聞(にょぜがもん)」私は、このように聴きました2の追記

「如是我聞(にょぜがもん)」という言い回しは、一般に宗教の世界の聖人からの聞き書きを意味します。政治家に適用するのですかと聞かれました。

亀井静香衆議院議員の講演に関する昨日のブログのことです。フェイスブックにも投稿したところ質問がありました。もっともな疑問だと思いました。

欲望渦巻く政界と仏様の世界とは余りに隔たっていると見えるのは当然です。しかも亀井氏のようにいかつい顔と聖人のイメージとが結び付かなかったのでしょう。

しかし仏様も欲望渦巻く人間社会で自ら得た悟りを語っていました。遠い山の山中にこもって布教をしたのではありません。ここは間違えてはなりません。

人間の顔をした妖怪が跋扈する政界で仏のような心境になって真実を語ることは大いにあり得ることですし、またそうした人物が求められています。

亀井氏はその領域にあります。今更総理を目指す訳ではありません。日本という国を憂いているだけです。「如是我聞」という言い回しで発言を紹介するに足る人物です。

発言が大衆に受ける、受けないは関心が無くなっているのではないでしょうか。関心は、ただ一点、自らの信念にのっとり正しいことを言うということです。

天皇陛下の退位問題は典型例です。国民の大多数が認めようとしていることにあえて異を唱えるなくても良いのに止むにやまれぬ気持から生前退位断固反対を訴えてます。

亀井氏の発言で昨日書き忘れたことがあります。飛ぶ鳥を落とす勢いに見える小池百合子東京都知事に対して厳しい言葉を投げかけていました。

「今年85歳になる老人をいじめている時間があるのならば豊洲に移転するのかどうかを真剣に検討するのが都知事の仕事だ。」と断じていました。

自民党と公明党の都議会議員についても「自分たちだって責任があるではないか。それなのに100条委員会を作ったりして。」と苦々しげでした。

石原元知事を悪者にして自らをより良く見せる演出しているやり方が気にくわないと同時に人気取りではなく本当の政治をやれという叱咤もあるのだと思います。

小池人気にすがろうという議員たちのうごめきは情けなくてしょうがないのだと思います。根性の据わった政治家はいないのかと嘆いているのだと思います。

本当のことを言う長老政治家の言葉を真剣に受け止めて行動に移す若いサムライはいないのでしょうか。本当に国会議員が弱くなりました。特に男性の。

見てくれや、目立つかどうかばかりを気にして政治経験を積んでいても凄みは全く出てきません。男性の若手政治家の弱体化は惨憺たるものがあります。

地方で叩き上げて中央政界に躍り出たかつての梶山静六氏や野中広務氏が睨みをきかしていた時代が懐かしいです。今は幼稚園児が踊っているみたいです。