森友学園問題が突き付ける日本社会のこっけいさと時代錯誤。

並みいる重大ニュースを押しのけて学校法人「森友学園」への国有地売却疑惑に端を発した森友学園問題がお茶の間の話題をさらっています。

しかし、表面的な事象の面白さに目を奪われてはならないと思います。森友学園問題は、現代日本の政治や社会が抱える重大な矛盾を見せつけています。

メディアで紹介される森友学園の教育方針を見ると明治国家の教育に戻ろうとしているかのようです。教育勅語を重視したり漢文の素読を取り入れたりしてます。

私立学校の教育であり非難には当たりません。それどころか教育勅語の中から現代的な意味を汲み取ったり漢文の素読で東洋の教養を身に付けることは意義あると思います。

最大の問題は、学園側が子どもたちに教えようとしている教育勅語や漢文の古典が主張している内容を教育方針を決めている側が全く無視しているという矛盾です。

教育勅語は、親や家族の大切さや友人との友情を讃え世のため人のためになる人物になることを目指し国家の危急存亡のときは立ち上がることを目指してます。

明治天皇ご自身が、そうした人物になることを拳拳服膺(けんけんふくよう)、大切に心に刻み自ら実践することで手本となることを宣言しています。

また森友学園が取り入れている漢文の素読の基本になるのは四書五経と呼ばれる中国儒教の古典です。明治時代初期までの教養の基礎を形成していました。

例えば二宮金次郎少年が薪を背負いながら読んでいたとの伝えられる『大学』という古典には、自らの身を修めることが何より大切と書かれています。

籠池理事長やい稲田防衛大臣は、明治天皇の率先垂範の高い理想や『大学』が教える修身の重みを知っているのでしょうか。お二人の現実の動きとはま逆です。

教育勅語を重視したり漢文を素読しただけでは人物は育ちません。そう考えているとしたらこっけいです。まずは指導者が率先し自らの身を修めることから始まります。

もう一つ、見落としてはならない問題があります。森友学園が理想としているかに見える明治国家の行くへからも目を逸らしてはならないということです。

日清、日露戦争で勝利した明治国家は大正期のバブル時期を経て昭和に入り中国大陸への侵略国家へと変貌を遂げ最後はアジア・太平洋戦争で崩壊しました。

明治国家の理想は達成されなかったのです。その歴史的事実を無視して明治国家を理想とすることは同じ過ちを起こす危険性と裏腹で時代錯誤です。

今必要なことは明治国家を美化し立ち戻ることではありません。明治国家の理想がなぜ達成できなかったのかその原因を探り改めることです。

近代から現代の日本の歩みからその本質的な動きを探ると見えてくるのはアジアを捨てて欧米に走った日本の姿です。福澤諭吉の「脱亜入欧」路線です。

アジア・太平洋戦争に敗れた後は「入欧」ではなく「入米(べい アメリカ)」一辺倒ですので福澤路線は今なお健在です。ここに日本の本質的問題があると思います。

森友学園のように明治国家に単純に立ち返る教育を志向したりすることは、薄っぺらです。もっと本質的な問題を捉え日本の将来を考えなければなりません。