二宮金次郎の遺言から見えてきたもの。
(二宮金次郎像 小田原尊徳記念館)
8日、東京湯島で定期的に開催されている小さな勉強会に招かれました。二宮金次郎について話題提供して欲しいということでした。遺書の話をしました。
北関東地域を中心に疲弊する農村再興に生涯をかけた二宮金次郎は1856年10月、69歳の生涯を閉じました。その前年の大みそかの日記に辞世の言葉を残しています。
「私の足をみなさい。手を見なさい。手紙を見なさい。日記を見なさい。戦々兢々として深い淵に臨むようだった。薄い氷の上を歩くようだった。」(現代語訳は筆者)
この遺言にはお手本があります。中国儒教の古典『論語』に孔子の若い弟子の曾子の遺言があります。岩波文庫で金谷治氏はつぎのように訳しています。
「曾子が病気にかかられたとき、門人たちを呼んでいわれた。「我が足をみよ、わが手をみよ。詩経(注;儒教の古典)には『おそれつ戒めつ、深き淵に臨むごと、薄き氷をふむがごと。』とあるが、これからさきはその心配がないねえ君たち。」
曾子は、親からいただいた身体を傷つけることなく大切にすることを孝行の第一としたということです。死んでしまうのでこれから先はそんな心配しなくて良くなったと言った訳です。
遺書の一般的な現代語訳は、内容が柔らかいというか緩くて過酷な生涯を送った二宮金次郎がお手本にしたと考えるには、どうもしっくりきません。
疑問が解けました。江戸時代の中期を代表する日本の儒学者に荻生徂徠(おぎゅうそらい)という人物がいます。徂徠の論語解釈を読んで二宮金次郎が引用した理由が納得できました。
徂徠は曾子の遺言の時代背景を知らなければならないとしています。曾子が活躍した中国古代は刑罰で身体を傷つけられるのは当たり前の時代だったというのです。
そういった厳しい環境の中でも身体を傷つけずに済んだことを述懐しているのだというのです。そういう解釈ならば二宮金次郎が参考にしたのはよく理解できます。
二宮金次郎が荻生徂徠の解釈を前提に遺言を遺したことは重い意味があります。徂徠は江戸中期の日本の儒学社会において革命的な変革をもたらしました。
朱子学という学派一辺倒の時代状況に敢然と立ち向かい新たな学派を結成しました。大きな違いは、聖人と呼ばれる偉大な為政者が人間社会を創作したという世界観です。
天から自然と与えられたものではなく自ら作り出して人間社会に定着させたという考え方をとる思想家は日本の政治思想史の中で稀有な存在です。
この考え方を発展させると社会変革の原動力となります。天にお任せするという受け身ではなく天に代わって人間社会を創作する訳ですから革命的です。
徂徠の思想を二宮金次郎が参考にしたことは遺書から判断するとほぼ間違いありません。だとすると二宮金次郎が目指した理想は、社会変革にあると推定できます。
二宮金次郎の遺言から明確に見えてきたことは二宮金次郎を刻苦勉励を唱える道徳的人物として捉える事は正確ではないということです。
二宮金次郎は社会変革を目指した実践家だったのです、そうでなければあのような遺言を残す訳はありません。金次郎イメージを根本から見直す必要があります。