田中丘隅(きゅうぐ)と将軍・徳川吉宗を結び付けた徂徠学(そらいがく)。

(田中丘隅が原文を書き荻生徂徠が手を加えた神奈川県南足柄市の文命東堤碑)

神奈川県西部の母なる川、酒匂川(さかわがわ)、1707年の富士山大噴火後の降り砂により上流部で土手が切れ足柄平野一帯は大洪水となりました。

1726年に土手が締め切られひとまず工事は完成しました。立役者は川崎宿の元名主で多摩川の治水工事の経験を持つ田中丘隅(きゅうぐ)でした。

田中は、酒匂川の治水の難所に祠(ほこら)を建て、中国の治水神・禹王を祀りました。禹王の本名である「文命」の名を取って文命遺跡として残っています。

石碑の碑文は、田中丘隅が原文を書き、当時の代表的な儒教学者、荻生徂徠が手を加えました。酒匂川の治水史に関心がある皆さんなら誰でもご存じのことです。

福澤神社

今年も5月5日の福澤神社の祭礼があり境内の石碑を眺めました。田中丘隅が徂徠の儒学を学んでいたという事実をもっと重く見るべきだったことに気づきました。

荻生徂徠という儒学者が江戸時代中期に置いてどんな存在であったのかにも視野を広げて考えるべきだったと思いました。重要な点を見落としていました。

政治思想史の専門研究者、子安宜邦氏による『「事件」としての徂徠学』という小論があります。荻生徂徠が主張した説は、事件だったのです。

江戸時代中期、儒教の世界では、朱子学という学派が圧倒的存在でした。荻生徂徠はその学派の考え方を真っ向から否定し徂徠学派を形成し時代に名を残しました。

治水神・禹王ら中国古代史を彩る聖人君主が荒れすさんだ人間社会に新たなルールを打ち立てて安定した社会を構築したというい考え方が徂徠の考え方です。

人間社会は自然に形成されるのではなく聖人が意図的な作為によって出来あがるという考え方は日本では稀な発想です。流れに委ねることを良しとする政治風土だからです。

戦後の日本を代表する政治学者の丸山眞男氏が荻生徂徠の作為の思想を日本政治思想の画期として光を当てたことで荻生徂徠への関心が高まりました。

しかし徂徠は、あくまでも学者で実践者ではありません。学者が人間の作為で社会は変ると変革を訴えたところで実践がなければたわごとに終ってしまいます。

田中丘隅のような実践者が登場して初めて初めて徂徠の作為論は血が通うことになります。田中は、徂徠の思想を実践した改革者として捉え直すことが重要だと思いました。

田中丘隅の著した『民間省要』は江戸幕府の政治への厳しい批判の書でした。徂徠の作為の思想に基づいて世直ししようと義憤に燃えたのだと思います。

田中丘隅を抜てきした江戸幕府8代将軍の徳川吉宗も荻生徂徠を高く評価していました。『政談』という徂徠の書は吉宗に提出された政治改革論でした。

現場の実務者、幕府のトップというい立場は大きく隔たっているものの、ともに徂徠の作為の思想を身に付けた改革実践者だという共通性が2人を結び付けたと思います。

田中丘隅、徳川吉宗という改革実践者2人が荻生徂徠の作為論でつながり、私たち足柄地域の存亡の危機を救った歴史を地域に住む者はしっかり押さえておく必要があります。