「平和の集い」~父から聞いたシベリア抑留~
神奈川県開成町の遺族会では戦争体験を語り継ごうと毎年平和の集いを開催しています。120人近くの参加者があり満席でした。
中学生、高校生の顔も見えました。遺族会の会長のお孫さんでした。さすが会長です。自らの家庭で戦争体験を語り継ぐ姿勢を実践されています。
現役バリバリの若い男女が十人ほど参加してました。開成町役場の職員が研修を兼ねて話を聞きに来ているとのことでした。
テーマは「父から聞いたシベリア抑留」でした。父は手記『北の国に生きて』を残していますので手記をベースに各文献を参照し話しました。
日本が戦争に敗れ終戦となった8月15日、ソビエトと旧満州(現在の中国東北部)では中立条約を一方的に破棄し侵攻したソビエト軍との戦いが続行中でした。
1300名あまりの将兵を選抜し爆弾を背負って戦車の下に潜り込み爆薬を爆破させて自らは敵中を突破して戦線を離脱するという身を挺しての戦いです。
部隊に名付けられた名前は挺身大隊でした。父はその大隊長でその作戦を遂行し任務を全うしました。将兵の7割を失いました。
父は、勇敢に戦い戦地に散った若者たちを「戦争で死ぬために生まれてきた世代」と称してました。父の死後菩提寺に慰霊碑を建立しました。
戦闘が終わった後更なる試練が待っていました。ソビエトは国際法を無視して64万人の将兵をシベリアに連行し強制労働をさせました。
重労働と栄養失調で5万3千人が死亡したと言われます。日本に帰ることができると欺かれたうえ待っていたのは非業の死とあってはいたたまれません。
日本軍将兵同士のいがみ合いも激しくなりました。ソビエトの共産思想の洗脳教育が始まりその流れに乗る日本軍将兵が圧倒的でした。
父のように断固としてソビエトに屈しない態度をとる将校に対する吊し上げが横行しました。ソビエトに協力する姿勢をとる高級幹部も多くいました。
戦後中曽根総理大臣のブレーンと言われた伊藤忠商事の元会長の瀬島龍三氏もその一人でした。父と独房で隣りあわせだった時がありました。
瀬島氏からソビエトへの協力をしないことを詰問されたのに対し父は激しく反問し瀬島氏は下を向き黙ってしまったとのエピソードが手記にありました。
自らを過酷な抑留生活に追い込んだソビエトの独裁者スターリンに対し逆に感謝状を贈る運動も発生し実際に行われました。
父は当然拒否しました。祖国に戻りたいとの一念だったとはいえ日本人が取った行動には日本人の精神構造の特性があると思わざるを得ません。
4年8か月に及ぶ抑留生活を終え帰国した父は1963年2月から1983年2月まで20年間生まれ故郷の町長を務め翌年急死しました。
町長時代、開成町の狭い町域全域を都市計画区域に設定して計画的なまちづくりを目指しました。3分の1は良好な農地を残すとしました。
高度成長時代に規制をかけるのですから当然反対がありましたが屈しませんでした。今日の開成町の発展の土台を造りました。
不屈の姿勢は明らかに軍人時代に培われたものです。開成町の若い職員に開成町の今日の発展の背景には、不屈の精神が存在することを伝えました。