私の2017年その1~父から聞いたシベリア抑留~
今年も残りわずかとなりました。ブログをご覧になっていただいた皆様一年間ありがとうございました。この一年を振り返らせていただきます。
私の一番の節目の出来事は父のシベリア抑留時代を父の遺した著書を振り返り総括できたことです。ようやくけじめを付けられました。
地元開成町の遺族会の会長から今年の8月15日の終戦記念日の平和の集いで講演して欲しいと依頼があったときから節目の行事と位置付けていました。
父は、帝国陸軍の軍人で1945年8月9日の旧ソビエト軍の旧満州(現在の中国東北地方)への侵攻を食い止めようと激闘を展開しました。
私は父が4年半のシベリア抑留から日本にもどってきた後、42歳の時にできた子供です。父は随分と年が離れとても怖い存在でした。
軍人時代の話は幼いころから幾度となく聞かされ激しい体験談が耳にタコのようになっていたせいか父の体験に向き合うことができないままでした。
講演の依頼が父の人生にとって忘れることのできない鮮烈な記憶になっている体験を追いかけるチャンスを与えてくれました。
父は私にしばしば「負けてたまるか!」の気持ちで立ち向かわなければならないと言っていました。「どうせだめだ。」という姿勢を毛嫌いしてました。
父のシベリア体験の著書を読んで父がなぜ負けてたまるかをモットーにしていたかが理解できました。生きるか死ぬかの岐路を乗り越えてきたからです。
「負けてたまるか!」という父の言葉が単なる説教ではなくすとんと肚に落ち初めて実感をもって感じ取れるようになった気分がしました。
旧満州では日本人の兵士だけが戦ったのではないことも知りました。植民地だった当時の挑戦の兵士も勇敢に戦い命を落としました。
武器弾薬に比べ物にならない格差が存在している状況を打開しようとソビエト軍の戦車の下に潜り込み弾薬を仕掛け爆発させるという決死戦です。
戦争で死ぬために生まれてきた連中だから大切に弔わなければならないと父が言い続けていたことも改めて思い出すことができました。
戦闘の場面の記述は壮絶であってもどこかにさっそうとしたはつらつさがあります。暗く陰惨なのは捕虜収容所でのシベリア体験です。
ソビエト軍は国際法を無視し日本軍将兵を労働力が不足し開発がままならなかった極寒のシベリアへと連行し強制労働を課しました。
父は将校でしたので強制労働からは逃れられましたがソビエトの共産主義思想に徹底して抵抗したためにソビエト軍からにらまれる存在でした。
日本人のかつての同志たちからなぜ共産主義思想に同調しないのかと吊るし上げられました。同じ日本人同士がいがみ合ったのでした。
日本人捕虜の多くは一日も早く帰国したいがために当時のソビエトの独裁者スターリンを称える感謝状を贈る運動まで実際に行われました。
かつての同志の行動に断じて同調しなかった苦い思い出からも「負けてたまるか!」精神が血となり肉となったのだと思います。
しかし、父が、著書で残した最後の言葉は激しさと無縁でした。平和が一番だとまとめています。平和とはなんと得難いものなのかを再確認できました。