追悼 野中広務 先生

野中広務先生が倒れたとの話を耳にしたのは昨年の秋が深まった頃でした。一時回復との話も聞こえてきましたが残念ながら最期を迎えられました。

1990年8月私はNHK政治部で自民党竹下派の担当を命じられました。緊張感が走りました。当時の政界を完全に牛耳っている権力集団であったからです。

金丸信、竹下昇、小沢一郎、梶山静六、橋本龍太郎、小渕恵三、そうそうたる実力者が並んでいました。そんな集団の中で頭角を現したのが野中広務先生でした。

私が最初に知り合った時、野中先生は当選3回でした。年齢は60を超えていました。京都府園部町の町議、町長、府議会議員、副知事を経ての衆議院議員でした。

野中先生が東京の宿舎としていた高輪宿舎に俗にいう夜討ち朝駆けを繰り返しました。当選3回の議員ですのでさほど注目されていませんでした。

私は野中先生から発せられる匂いを嗅ぎに通ったといっても良いです。父親と同じ町長というか地方政治家を体験した政治家が発する雰囲気が心地よかったのです。

野中先生は当選回数も、年齢も関係なくぐんぐんと頭角を現しました。捨て身だったからです。多くの政治家が身を守ろうとするのに身を捨てて行動します。

泥をかぶることになっても平然としていました。この胆力たるやただものではありません。現在の政治家にはほとんど見ることができない振る舞いです。

それと口癖は筋を通さなければならないという言葉でした。厳しい局面に陥る危険性があっても筋を曲げてはいけないと言い続けていました。

野中先生の生きざまから大きな影響を受けました。父は私が29歳の時に亡くなりましたが野中先生は二番目の父親と言って良いです。

私が1998年2月に町長に就任してから幾度となく開成町を訪問し講演して下さいました。聞かれた皆さんはやや甲高い迫力ある声が耳に残っていると思います。

野中先生に私もようやく野中先生に一歩近づきましたと報告したことがあります。浴びるほど飲みまくっていたお酒を一切断ったことについてです。

野中先生は園部町長に就任後、経費がかさんでいた役場の飲食費を削るため断酒し身をもって厳しい姿勢を内外に示しまし断行しました。

私の場合は野中先生のように立派な理由ではなく身体を壊し酒を止めました。酒を飲まなくなって本来の町長職の任務を果たせるようになったと話しました。

野中先生は戦争体験がある最後の世代です。二度と過ちを犯してはならないという使命感がありました。勇ましいことを語る政治家に警告を発してました。

戦争を知らない世代が安直に軍事力の増強に走る傾向を厳しく戒めてました。こうした考え方の延長線上には憲法9条を守る姿勢も貫かれてました。

現在の安倍政権が進めようという方向とは全く異なるものです。野中先生の遺志を継ぎたいと思うのならば憲法9条を守る一点は絶対に外せません。

憲法改正論議が進み国会は次も取りざたされている中で野中先生はこの世を去りました。天上から9条を守るために戦えと叱咤しているに違いありません。