追悼 野中広務 先生 2
2014年10月18日横浜市のかながわ県民センターで野中広務先生をメインゲストにお招きしシンポジウムを開催しました。
タイトルは「神奈川から東アジアの平和を拓く!」と大きく出ました。沖縄基地問題と日中関係をどのように解決していくかがテーマでした。
野中先生以外にこのテーマを縦横無尽に論じることができる政治家はいないと考えて参加いただきました。迫力ある言論を展開していました。
沖縄の基地問題も日中関係の改善もともに野中先生は、精魂傾けて取り組んでこられました。その姿勢の背景にはご自身の戦争体験があります。
野中先生が沖縄を訪問した際に乗車したタクシーの運転手が突如、太平洋戦争末期の沖縄戦において日本軍によって殺害されたと号泣しながら告白しました。
この体験は野中先生に衝撃を与えました。沖縄の基地問題に努力を惜しまず取り組んだのは沖縄県民に対する政治家としての責務と受け止めていました。
ただ普天間基地の名護市辺野古への移設については沖縄県の合意を取り付けようと奔走したのが野中先生でした。話を決着させたのでした。
名護市や沖縄県の地域振興策を大胆に断行し基地の移転は受忍してもらうというとです。野中先生の信頼感と政治力で合意が成立しました。
野中先生が政界を引退した後、野中先生を引き継ぐ保守の政治家は現れませんでした。2009年9月鳩山民主党政権が誕生しました。
鳩山由紀夫総理は普天間基地について「最低でも県外」と明言したもののとん挫しました。安倍政権になって再び辺野古への移転へとかじを切りました。
今日の事態を野中先生はどのように見ているのか残念ながら聞く機会を逸しました。解決には沖縄県民から信頼される大物が間に入らなければなりません。
強引に押し切るやり方は反発を招き対立の溝は深まるばかりです。野中先生のような政治家がいなくなった今日の中央政界の劣化を感じてなりません。
中国に対する野中先生の思いは沖縄と同様自らの戦争体験に根差しています。日本の中国大陸政策を誤りと胸に刻んでました。
中国大陸で犯した日本軍の行動を深く反省し償わなければならないという決意は常に底流を流れていました。言うだけでなく実践されていました。
中国大陸に遺棄された化学兵器の処理をはじめ戦後いまだ解決していない戦争の傷跡を修復し中国人民の心を癒す行動をとられてました。
2012年尖閣諸島の領有問題をめぐって日中が対立し日中国交正常化から40年の記念行事が取りやめになるほど悪化した事態は無念であったと思います。
高齢を押して自ら訪中し打開の糸口を見つけようとしましたが安倍政権は中国と対峙する姿勢が基本ですのでうまくいくはずはありません。
日中問題においても野中先生のように中国の信頼感を有し国内政治においても剛腕を発揮できる政治家がいないことがこじれる大きな要因です。
残された野中先生を慕う者たちは暗たんたる気持ちになりそうですが各自がそれぞれの立場でできることを着実に進めるほかに道はないと決意しています。