節分の日にまちづくりを考える。

まちづくりは、毎年の行事が繰り返される中にこれぞという目玉政策を打ち込み流れを刷新させようとします。決して自然に連続的に変化が起きるのではありません。

変化は政策決定者が意図的に起こします。節分のように大きな分かれ目があります。20年か、30年に一度の大変化です。この大変化がまちづくりの成否を決めます。

私が町長を務めた神奈川県開成町を事例にして説明します。1963年私の父の露木甚造が町長に就任してからの5期20年で町の基礎ができました。

1955年2月1日に二つの小さな村が合併して開成町が誕生したあと全町に開発規制の網をかぶせるという大胆な計画的なまちづくりを断行しまちづくりの画期となりました。

1983年に父が引退した後、1987年に山神輝(あきら)町長が登場し滞っていた小田急線開成駅の誘致を完了し駅前の整備に着手しようとしました。

ところが3年足らずで山神町長は急死し駅前開発の構想は次の世代に委ねられました。1998年2月に私が町長に就任しこの構想を受け継ぎました。

まちが誕生してから三つの大きな波があったわけです。父と私の二つの波は大波となりましたが間に挟まった山神町長が興そうとした波は未完に終わりました。

全国どこの地方自治体でもこうした節目があるはずです。節目を担う役回りのトップとその間をつなぐ役回りのトップの時代が交互に現れます。

このトップの交代をスムーズに果たすことがまちの発展を左右すると思います。トップが私利私欲で地位にしがみつくとまちの本来の発展が阻害されます。

開成町は今変革の時を迎えようとしています。現在の町政は町長は露木順一から府川裕一町長に受け継がれていますが実態は露木時代の継続です。

府川町長の代になってまちづくりが抜本的に変化したことはありません。露木順一時代の成果に基づいて町政が成り立っているのはまぎれもない事実です。

しかし、露木順一時代のまちづくりも色褪せてきました。大胆に新しい血を注入する時時代に直面しています。だから有望な新しい人材を推しているのです。

露木時代にけじめをつけて次なる開成町の発展の時代を導かなくてはなりません。山神裕さんという時代が求めている人材の登場を歓迎しない手はありません。

山神裕さんが志半ばでこの世を去られた山神輝元町長の長男というのも何かの因縁です。私と同様、父の夢を受け継ぎ実現して欲しいです。

節分の日に山神さんが地域のタウン紙「タウンニュース」に投稿している記事を読みました。新しい時代がすぐそこまで来ているとワクワクしました。

自らの国際体験を活かして英語教育を始め国際性豊かなまちづくりを展開したいと抱負を述べていました。時代が求めている人材だと確信しました。

府川町長も3期目を目指す姿勢です。そうであるのならば露木時代の成果を売り物にするのではなく自ら考えた独自の構想を打ち出す必要があります。

私の町長時代のアイデアを応用するのは限界です。私のアイデア自体が時代遅れになっていますし他人の借り物政策では時代は開けないからです。