追悼 翁長沖縄県知事
8月8日の夕方知人から携帯電話が鳴り出てみると翁長沖縄県知事が意識が混濁状態だという話が入ってきました。
テレビでも速報で伝えていました。そして息を引き取りました。憤死だと思いました。
2013年1月27日東京日比谷の野外音楽堂で私は初めて翁長那覇市長(当時)の声を聞きました。
垂直離発着型のヘリコプター、オスプレイを在日アメリカ軍が普天間基地に配備することに反対集会が開かれてました。
普天間基地の閉鎖と基地の県内への移設反対も強く求める集会でした。日比谷野音いっぱいでした。
自民党の沖縄県連をけん引してきた一人である翁長市長が敢然と立ちあがりノーを主張するのですから関心を持ちました。
翁長市長の言葉は今でも耳に残ってます。沖縄の41市町村の代表全てが壇上に並び翁長市長は断固たる決意を示しました。
「沖縄はもう後戻りしない!」と言い切ったのです。その声を耳にした時の高揚感を覚えています。
「基地があるから町の発展と自立ができない。」基地で飯を食っているという論に真っ向から立ち向かいました。
返還された地域を開発し新都心とし基地の収入が21億円だったとに比べて200億円となった事実を突きつけました。
この集会の時から保守も革新もなくオール沖縄で在日アメリカ軍基地問題に立ち向かう体制が出来上がりました。
これに対し政府の姿勢はかたくなで翁長市長が思うようには事態は推移しませんでした。
そして翁長市長は県知事選への出馬を決心し2014年11月の選挙で圧勝したことは鮮烈に記憶に残ってます。
沖縄県民の民意が示されたにもかかわらず国策としての辺野古への岸の移設方針は変わりませんでした。
翁長知事と政府との対立は深まる一方で遂に前知事の埋め立て承認を取り消す事態となり対立はピークに達しました。
この激突の中で翁長知事はこの世を後にしました。最後の最後まで移設阻止に執念を燃やしていたと報じられています。
私の知人は最悪の事態になったと言いました。私も一瞬そう思いましたが違うのではないかと思い直しました。
天はすい臓がんで闘病中の翁長知事の生命を絶妙のこれしかないタイミングで召したと思うようになりました。
衰弱した身体で選挙戦を戦い抜くのは無理だと判断し、天は突如として翁長知事を召還したのです。
これからは目に見えない永遠の姿となって辺野古への移設を阻止するために縦横無尽に戦えということです。
もはや身体がないのですから時空間を自由自在に動き回れます。翁長知事の遺志を継ぐ人たちを勇気づけます。
翁長知事の急逝は、辺野古への基地移設を阻止する県民の心を再び熱くさせるきっかけだと思い直しました。
県知事選挙は来月30日と決定しました。短期決戦ですので風向きが勝敗の分かれ目です。
基地移設に反対する陣営は移設予定地の辺野古がある名護市長選を始めこのところの地方選挙で敗戦続きでした。
この逆境を跳ね返し起死回生の端緒となるため身を捨てて立ち向かったのが翁長知事だと思います。合掌。