最晩年の昭和天皇の苦悩について考える。

動乱の時期を日本の元首として生きた昭和天皇の侍従の一人、小林忍さんの日記の存在が明らかになりました。

共同通信社が入手し、その詳細な内容を23日付の新聞やテレビに一斉に配信しました。

1987年4月7日の日記の記述に注目が集まりました。報じられた内容は以下の通りです。

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方ない。辛いことをみたりきいたりすることがおおくなるばかり。兄弟など近親者の不幸に会い、戦争責任のことをいわれるなど。」

昭和天皇はこの年の誕生日に気分が悪くなり食事をもどされ、9月にすい臓がんの手術を受けました。

その後公務に復帰されたものの1989年1月7日に逝去されました。87歳でした。

戦争責任についていわれるのがつらいとこぼされた背景にはいったい何があったのでしょうか。

神奈川新聞の解説は、以下のようになっています。

「アジアの国を侵略した大日本帝国を率い、太平洋戦争の開戦と敗戦に臨んだ天皇の脳裏に刻まれた記憶が、最期まで頭から離れなかったことが確認できる。貴重な「昭和後半史」だ。」

私は、この解説は、昭和天皇の深い苦悩についての解説としては極めて表面的で物足りないと思います。

戦後天皇を戦争犯罪者として処刑しろとの声は連合国内に間違いなく存在しました。

そうした声を封じて逆に占領政策に天皇の存在を活かそうとしたのは連合国最高司令官のマッカーサーでした。

昭和天皇はマッカーサーと11回も極秘に会談しています。1945年9月27日から1951年4月15日にかけてです。

日本国憲法が公布されたのが1946年11月3日で施行されたのが翌年の5月3日です。

天皇は日本国の象徴とされて内閣の助言と承認に基づく国事行為を行うこととなっていました。

しかし昭和天皇の実際の行動は憲法で定められたものとは全く異なっていました。日本のありようを決めていました。

政治学者の豊下楢彦さんが会談の内容を詳細に検討して『昭和天皇・マッカーサー会見』という著書にまとめています。

著書によれば、昭和天皇は、憲法9条によって非武装化された日本の防衛に疑問を呈しアメリカの役割を積極的に求めています。

1947年4月6日の第4回会談でのことです。憲法9条が掲げた理想と大きな隔たりがあります。

更に、同じ年の9月19日に昭和天皇はマッカーサーの政治顧問だった人物に驚くべきメッセージを発しています。

アメリカによる沖縄の占領を25年50年あるいはそれ以上の長期の貸与という形で継続するのを望んだというのです。

日本の防衛のためにはアメリカ軍の沖縄占領は是認されるとの考え方が明快に打ち出されてます。

沖縄のその後の歴史は、昭和天皇の意向に沿って進んでしまったとの思いを私は持ちます。

昭和天皇は、戦争責任が回避できた一方で正しい行動を取ったのであろうか疑念を抱かれていたと私は推測します。

ある種の後ろめたさです。だからこそ戦争責任について最晩年まで敏感で悩み苦しまれたとみるべきではないでしょうか。