第8回国際二宮尊徳思想学会
今月20日と21日、中国・山東省の曲阜師範大学で第8回国際二宮尊徳思想学会が開催され、私も研究発表をします。
曲阜(きょくふ)と聞いてピンとくる人は中国儒教に詳しい方です。儒教を興した孔子の生まれ故郷です。
孔子は紀元前552年にこの地で生を受けました。当時は魯(ろ)国といいました。言行録は『論語』にまとめられています。
儒教は東アジア各国に思想的に大きな影響を及ぼし日本においても江戸時代は儒教の中でも朱子学が国教となりました。
幕府のブレーンにとっても藩校で教える学者にとっても寺子屋で学ぶ庶民にとっても儒学は基本でした。
明治維新以後の「脱亜入欧」政策により日本の国家方針は中国から欧米へと中心が移りました。
江戸時代の中国儒教への傾倒ぶりを想像するのは現代日本人にとってなかなか難しいことです。
今回中国儒教の聖地を訪問することができますのでその影響力の源泉のいったんをしっかりと学びたいです。
さて、二宮尊徳といえば誰もが頭に思い浮かべるのは少年時代の金次郎が本を片手に薪を背負って歩く姿です。
現在でも全国の小学校で銅像が立っています。手にしているのは中国儒教の古典の『大学』だとされます。
この「負薪読書」の姿自体は明治時代以降に作られた伝説ですが二宮尊徳が儒教を学んでいたことは事実です。
二宮尊徳の思想では「神儒仏一粒丸」といいます。神道と儒教、仏教は基本は一つだという考え方です。
儒教が思想の一翼を担っていることは明らかです。特に行動的で実践的な儒教への関りがあります。
江戸時代中期に荻生徂徠という一時代を画した著名な儒学者がいます。人間としての行動、「作為」を重んじました。
日本思想の傾向として自然の赴くままにという自然に依存する傾向が強い中で荻生徂徠は異質の学者です。
二宮尊徳は「天道」と「人道」を分けて考え、「天道」は自然、「人道」は人間の手が常に下される世界だと捉えました。
「自然」に委ねるのではなく人間が主体的に「作為」することを重視する考え方に立ってました。
日本思想の中で異彩を放つ二宮尊徳の思想の特色はもっと着目されるべきだと私は思います。
また二宮尊徳は領主階層に対し「分度」すなわち財政運営上、無駄を省く規律を厳しく求めました。
そして更に財政規律によって生じた余剰財源を疲弊した農村再興に再投資する「推譲」も併せて要求しました。
身分制度の厳しい時代にあって領主階層に身を削ることと農村再興に投資することを求めることは命がけだったと思います。
二宮尊徳思想は革命的な性格を有していると見るべきで、こうした側面にもっと光を当てるべきだと研究発表をしてきます。
現代に置き換えていえば日本と世界のリーダーたちがそれぞれの国で財政規律を整え余剰を貧しい国に還元していくことです。
二宮尊徳思想を日本の封建時代の支配層のためのもので、戦前は、国家に尽くすための手段とされたと見るのは表面的見方です。
単なる封建思想にとどまらない深い内容があり世界的視野で見て現代に通用する考え方だと私は思います。